なんだかもう全てがどうでもよくなった。
ひたすら無心になって、目につくことも目を瞑って、聞きたくなかった裏話に耳をふさいで、問われたこと以上に口を開かず、ずっと同じような言葉を吐き続けた。
社交性なんてものは昔からなかった。人といることが苦痛で混雑した場所なんて地獄でしかない。
人の声が隣で喋る同行者と同じ音量で聴こえるから何を話しているのかわからない。適当に無難な相槌しか返せなくて罪悪感と苛立ちで頭がおかしくなりそうだ。
人を前にすると何を話していいのかわからなくて面白くもないのにずっと口角を上げて笑っている顔を保つ。マスクをつけるようになってからは目元で喜怒哀楽を表せるようになった。何も言わずとも一時的に好感を得られるから便利でいつの間にか当たり前になった。
こんなもの身につけたくなかったのに知らないうちに勝手に身についていた。
何でもないフリはとても簡単だ。でも自分を殺す。
我慢に我慢を重ねて、何もよくないのに他人を許さなければいけない。怒るだけの気力もない、争うほどの意見もない。
これってふつう?それともおかしい?どちらでもいいけど変だと言われたらそれはそれで開き直れるから気が楽になる。何一つ解決してないのに楽になれる優しい薬のようで結構好きなんだ。
今回で治療が終わる。命にかかわる大病だった。
よく死に直面すると人生観や死生観が変わると言うけど本当だった。私の場合1番大きくは変わったのは『どうせ死ぬならなんでもやっとけ』という心構えができたこと。
いつ死ぬかわからないなら今したいことをやってスッキリしたい。お金や時間との兼ね合いも考えながら計画するのは楽しかった。
まあ、何でもないフリをしなければいけない場面が多くてストレスはあったけど、それを差し引いてもいい体験だったなと思う。自分のことなのに他人事みたいなのはあんまり考えたくなかったから。それこそ何でもないフリだ。
なんかもういつでも死んでいいよって思える生き方が幸せなのかもね。
【題:何でもないフリ】
もし許されるのなら、別に許してもらうことでもないのだが、仲間だと思っていいのかな。
ただ何かしら共通点があって親近感が湧いたから勝手に仲間だと思っているんだ。ごく限られた共通点、たったそれだけの部分をみて、その部分に限り仲間だと思う。
極端な話ではあるが、それ以外の部分では何の関係もない同志でも敵でもない他人となる。
自分はとてもシャイで口下手だ。自分から話しかけることはおろか、聞かれたことにすら上手く答えられないくらいシャイだ。社会性や社交性の欠如とでも言おうか。最低限のマナーと報連相がある程度できていればギリギリ及第点だと助かる。
そういうふうに生きてきた。それ以外の生き方がわからなかった。自虐することで期待されずほどよい距離を生み出しお互いの負担を軽減する、それが最適解だと思うんだ。
この身のうちにあるドロドロとした常識や倫理観の欠如を外に出さず、嫌悪感のある対象にだけその片鱗を見せてやることで浅い付き合いで終える。
ちゃんと善悪は理解しているから、それが誰にも受け入れられないことだとわかっている。そしてそれを武器にできること、その扱い方を間違えなければいい。
きっと本当の意味で仲間になることはないだろう。
それでも何十年もの時間の中で、たった数ヶ月程度顔を合わせ、時期がきたら離れて二度と出会わない。
自分が消えていくような気になる。ただそれだけのわけのわからない独白だ。
生きるのは難しい、けれど失くすのは簡単だ。
それを受け入れるかどうかで人生の充実度が変わるのかもしれない。
どちらにせよ自分には難しいことだから、しかたない。
【題:仲間】
形骸化した社交辞令
【題:ありがとう、ごめんね】
「ぜったい、だいじょうぶだからね!」
小さな手が、僕の頬をはさんで強引に上を向かせた。悪意なんて微塵も感じられない無邪気な笑顔が視界いっぱいに映る。こつん、と額を合わせてもう一度同じ言葉を繰り返した。
小さな太陽みたいだと思った。
なんの根拠もないくせにその笑顔がすべて証明しているようだった。やまない雨はない、とか、そういう胡散臭いポエムとは違って目の前に完成品をぶら下げてそれ目掛けて走り出させてしまう、なんというか、パワーがある。
バイバイって小さな手を振りながら、反対の手を親に引かれて去っていく見ず知らずの子ども。僕と同じネームバンドをつけているのが不思議なくらい元気な様子だった。
いつか死んでしまうんじゃないか、もっと苦しむことになるかもしれない。尽きない不安とそれを助長する慣れない環境がつらくてしかたないのに、あの子はすごいな。
「…ぜったい、大丈夫だよね」
【題:部屋の片隅で】
手が届きそうで届かない、そんなもどかしい距離が私たちのふつうだった。
あの日もそうだった。普段は明るく、まるで無邪気な子供のように天真爛漫なあの子は時々無表情になるときがあった。感情や思考がごっそりと抜け落ちたような、生きている人間らしさを感じられないような、どこか虚ろな表情。
ひとりきりになったときに時々するだけだったのが、あの日は誰といても上の空で相手の視界から外れた瞬間に無表情になっていた。
…不謹慎ではあるけど、私がまだ知らないミステリアスな魅力を目にすることができて幸せだった。
あの日、半休だったから生徒は学校から追い出されるように下校した日。
あの子と同じ通学路を茹だるような暑さの中歩いていた。途中に踏切があって、そのときは遮断器が降りていてあの子は白線の前で立ち止まっていた。
ゆっくり歩けば立ち止まらずとも通れるようになるだろうとカタツムリのようにのろのろ進んだ。予想通り電車が大きな音を立てて近づいてきた。ぼんやりと前をみていた私の視界には電車と、あの子が鞄を地面に置く様子が映る。
「、あ」
あっという間だった。本当にあっという間だった。
止められなかった、止められる距離にいなかった。いや、止めなかったが正しいのか。
私はきっと人殺しだ。あの子を見殺しにした。
助けたかったけど助けたくなかった。なにか理由があったのかもしれないが私はそれを知らない。苦しそうなことだけしかわからなかった。
だから私は、あの子を殺した殺人犯なんだ。
【題:距離】