「本当に人間は勝手なんだから」
「あー、はは。なんかごめんね」
真っ黒な海を月が照らす。打ちよせる波が月光を反射しては消えて、また光る。なんてことのない夜の海だった。
その中で異質なのが彼女だ。正直、彼女と呼んでいいのかも分からない未知の存在である。
「あの人はわたしのこと忘れちゃったのかな」
潮焼け知らずの髪と肌は真っ白で、月の光を浴びて一層輝いてみえる。すらりとした上体は人間の女性であるが、問題はその下。人間ならば脚があるはずのそこは鱗に覆われた魚の尾であった。
ひらひらと金魚のような大きなヒレが華やかだ。水面を打って飛び散る雫がまるで彼女を引き立てる宝石のようで、つい見入ってしまう。
「毎日欠かさずわたしのところに来てくれたんだよ」
キャッキャと女子高生のようにはしゃぐ姿は可愛らしいが、なんとも人間臭い。もっとこう、童話に出てくるような人間とのズレや伝説のような恐ろしさがあると思っていたのに。
「ねえ、聞いてるの」
もちろん聞いている。毎晩同じ話をされていい加減聞き飽きてはいるけども。
よくもそんなに語れるものだ。もう何十年も前のことを、とっくに終わってしまった恋心を、何もかも知っているはずなのにどうして。
「じいちゃんが好きだったんだね」
「ちがうよ。『だった』じゃなくて好きなの」
今でもね、と。俺の目を覗き込んで微笑んだ。
何かを探るように、懐かしむように。俺を通して別の人間をみている。
「俺なら…、いや、何もない」
―――人魚の目をみるな、魅入られるぞ
じいちゃんの言葉が頭によぎる。月の明るい夜、海に面した窓や戸を閉め切って誰一人外をみることも出ることも許さなかった。
今になってわかる。あの言葉は本当だった。
もう俺は魅入られてしまった。人間に恋をした人魚に魅入られている。ずっと、ずっと。
【題:夜の海】
急勾配な坂を下る。
ペダルから足を離してハンドルだけを強く握りしめる。
カラカラと音をたてて忙しなくタイヤが回る。
はやくなる、はやくなっていく。
信号が点滅しているのが視界の端に映る。
耳の奥で拍動音がうるさい。
ブレーキは握らない。
ペタルは踏まない。
このままでいいの。
――― このまま、
【題:自転車に乗って】
そんな訳ないでしょ
上手くいってる人だからそんなこと言えるんだよ
過去にどれだけ大変な思いをしていても、今上手くいってるならもう違うでしょ
上手くいかないから許せるところがない
罪悪感と虚しさで息ができないほど苦しい
無責任な励ましや同情よりも、ただ黙って話を聞いて一言よくやったと認めてほしい
たったそれだけで上手くできなかったけど上手くできたと思えるようになるから
もう少し頑張ろうと思えるようになるから
たまには上から目線で自分を許してやればいいって思わせてよ
【題:上手くいかなくたっていい】
「ただ可愛がられたいだけなら簡単だよ」
「気に入られるとなると少し難しくなるかな」
「頼りにされるのも、信頼関係を築くのも少しずつ難易度は上がっていくの」
「だってほら、あなたもそうでしょ」
そこに1輪の花を持って立っているだけなのに目が離せない。きれいとか、かわいいとか、そんな俗物的なものじゃない。初めからそこにあったかのように溶け込んで、それでも尚失われない個が立っている。
夏の影を映した縁側に1人、陽射しを受けて光る花が1輪。それぞれの写真を切って貼り合わせたかのような視えない境界が1人と1輪の間にある。
「あなたは上手くやれてるよ」
そんな訳ない、そんな訳ないんだ。
だってここは貴女の場所であって私の居場所なんてどこにもない。だから隅の方で小さいままだったのに。
そんなふうに、簡単に、手折るなんて。
『うれしい』
貴女のおかげで私が輝ける。
仮死したそれはあと数日も保たない。
でも私はこれからずっと立っていられる。
――だから、私を、折らないで
【題:蝶よ花よ】
またいなくなった。
また見送りもできなかった。
また最期に立ち会えなかった。
また弔いもできない。
もう次はない。
帰れないし帰ってこない。
空っぽの容器をどうしようか。
コレを繰り返すくらいならこのまま飾っておこうか。
忘れないように。
繰り返さないように。
生きているものの宿命だとしても、嫌なものは嫌だよ。
― 最初から決まっていた