変わったことなんてなにもない。でも強いていうなら、少しだけ欲ばりになった。本当に少しだけ、頭にフッと浮かんで次の瞬間には消えてしまう程度のもの。
生まれもった飽き性と気まぐれな性格の延長線のようなものなんだ。
「お願いしてもいいかな」
ハの字に眉を下げて困ったような表情をしているのに、ぴったりと視線を合わせて逃さないと目で訴える女。
周りからは友だちに頼み事をする女の子に見えているのだろう。ここで断ればどうなるかなんて考えるまでもない。
私が悪者で、この女は被害者になる。
「わかった」
ヘラリと笑い、持っていた傘を広げて女の方へ大きく傾けた。機嫌よく軽やかな足取りで歩く女の隣、私だけ右肩とそこにかけたカバンが濡れて、冷たく、重くなっていく。
一歩進む。女が喋る。雨水が腕を伝う。たったそれだけのことで内側からドロリとした黒いものが染み出してくる。
私は偽善を、この女は得をした。
「あ、雨やんだね」
パッと女は飛び出した。立ち止まった私に気づかず、軽やかに、身勝手に、飛び出した。
鈍い衝突音と甲高いブレーキ音が目の前を通り過ぎていく。一気にざわめきだした周囲に対して自分の感情が静かになっていった。
女の方へ駆け寄ってその顔を覗き込む。お前のせいだと言わんばかりに睨まれた。きっと無意識だったはずだ。
ぴったりと視線を合わせて困ったような表情のまま、女の名前を連呼し続けた。
あのとき、私は少しだけ欲ばりになった。
【題:通り雨】
「はっきり言いなさい」
ごめんなさい。その一言ですら小さな声でモゴモゴとしか発せない。相手がイライラしてるのが表情や仕草から読み取れてしまって顔すらまともにみれず、足先ばかり見つめてしまう。
また怒らせてしまった。このあとため息をついてどこかに行ってしまうのだろう。もしくは殴られるか、説教がはじまるのか。今回はどうなるのだろうか。
「私はね、あなたが大事だから言ってるのよ」
僕もあなたを大事にしたいと思ってる。でもあなたのようにはっきりと言葉にして伝えることができない。
同じ言葉なのに全く違うものに感じるんだ。あなたの言う大事にしたい僕と、僕が思う大事にしたいあなたが別のモノのようで何も言えない。
〝大事にしたい家族〟って何ですか?
【題:大事にしたい】
「おまえ、頭がお花畑だな」
呆れたような、嘲るような声が言った。実際その笑みは歪みきっていて嘲笑と言っても差し支えのないものだった。指をさしてゲラゲラと下品に嗤う声がだんだんと増えていって、気づけば周りの人が全員嗤っている。
私もね、知ってるよその言葉の意味を。バカだと言いたいのでしょ。
でも私よりもテストの点数が低くて順位も下な本物のバカに言われてもなにも響かないの。怪我した人を助けもせず無視したり嘲笑うだけで手当てもできないバカに言われても傷つくことはないの。
人助け、といえば聞こえはいいよね。非難されることなどなく、むしろ褒められ感謝されることなんだよ。
急がば回れっていうでしょ。
私は「善人」のフリをすることで満たされるの。満たされれば嫌なものが入り込む隙などどこにもない。そうやって自分を守っているだけ。誰のためでもない、自分のためにね。
そういうのってすごく疲れるの。だからお花畑ときいたときなんだか嬉しくなった。きれいな花で頭の中が埋め尽くされて、それこそ嫌なことなど覆い隠してしまうほどだったなら私は。
ああ、本当に疲れているんだ。身体のあちこちが痛いのも、嗤われるたびに傷ついていたはずの心が何も感じなくなったのも。ぜんぶ疲れているせいなんだ。
「…はやく、終わらないかな」
【題:花畑】
切り刻む。
もう二度と読まれることも、見られることもないように。ハサミで細かく切り刻んでゴミとして捨てるの。
私が書いた文字も、描いた絵も、過去のすべてが無くなるまで繰り返す。何時間もそうやっていたせいでいつの間にかまめができて、それが潰れて、傷跡となって残った。
すべてを消すつもりが一生消えないものとしてつきまとうことになるなんて、滑稽すぎて笑えない。
この身体が燃え尽きるまで残るなんて、私自身がゴミだったのかもね。本当に笑えない。
【題:命が燃え尽きるまで】
―もう、誰もいないから。
そう言って、力なく笑ってゆっくりと落ちていく。
白くささくれ立つ指先が遠く離れていく。直前まで触れていた手は冷たくて、いつまでも握っていなければと変な使命感があったのに放してしまったんだ。
朝日が昇りはじめる前の靄がかった空は、深い藍色に薄い橙色が混ざりはじめていた。それを古びたビルの屋上からみていたんだ。お気に入りだったという曲を二人で歌いながら、暗く闇に沈んだ街のことなど忘れたフリをして、繰り返し歌った。
幸せとは言い難い状況で、いつも通りを演じること。
泣きも笑いもしない、淡々とした日常をなぞっていつかくる別れの日をただ待っていた。少しずつ青ざめていく顔色も、カサついてひび割れていく皮膚も。お互いがお互いの生気を失っていく様を静観していたのだ。
そうやって朝を迎えた。
ぼんやりとみえていた景色もだんだんと霞んでいって、もうほとんど視えていない。身体を動かそうにもまるでそこに手足など存在しないかのような感覚が残るだけ。
かろうじて聴こえた声が離れていくのが分かって、大きく目を開いて視界を広げ手を伸ばそうとした。
当然手は動かなかったけれど、最後に彼女の顔を一瞬だけはっきりと視ることができた。
先に逝ったのは僕で、彼女が最後だったんだ。
クシャリと歪めた表情から一転して穏やかに微笑んだから気が抜けてしまったのだろうな。一緒にという約束だったのに、久しぶりにみた笑顔にコロッと落ちてしまったのだ。惚れた弱みというやつなのだろうか、情けないな。
でも悪くない最期だった。約束守れなくてごめん。でも嬉しかったんだ。ありがとう。
【題:夜明け前】