私は家族は何よりも大切な存在だと思っている。
何を言われても、何をされても。どんなに無茶な要求でも理不尽な言い分にも我儘にも、そのすべてが家族にとって必要なものだと信じて疑わなかった。
でも、私が成人して実家を少し離れて生活し始めたあと、久しぶりに帰省した。そこでみたのは「家族」の皮を被った得体のしれない何かだった。
そこではお互いを罵り合い、責任を押しつけ合っている。まるで化け物のように大きな足音を立てて廊下を歩き、聞き取れないほど早口で喚いていた。
私のために用意したという食事を前にしても化け物どもはとまらない。ギャンギャンと騒ぎ立て、何も言わない私をみてため息を零した。そして一言。
「稼ぎがあるのなら仕送りくらいしろ」
お気に入りの財布を取り上げられ中身をみて、渋い顔をしながら中身を抜き取っていく。あまりにも自然な流れで行われていく行為に何も言えなかった。
―これが、家族…?
プチッと何かが切れて、火花を散らしたように目の前で赤い光が弾ける。
食器ごと机から叩き落として食事を踏みつける。奪われていたカバンと財布を取り上げて、抜き取られた紙束を化け物の目の前で破り捨てた。
喚き散らす化け物をカバンで殴りつけ大人しくさせてから家を出ていった。いや、もう家ではない。化け物の巣窟だ。
私は家族を失った。化け物に食い尽くされてしまったのだ。この喪失感を埋めてくれるものなどない。
だってもう私の時間は食い潰されてしまったのだから。
―絶対に許さない
【題:喪失感】
「あんたなんかッ」
何かを言いかけて苦しげに顔を歪めた。声を殺して泣く姿が頭から離れない。やっぱり私のせいなのだろうか。
ズルッズルッと重たい椅子を引きずって窓際まで持ってきた。椅子の上に立って少し錆びついた鍵を力を込めて外す。思っていたより大きな音を立てて外れたから、びっくりして椅子から落ちてしまった。おしりは痛かったけど1つ目の計画は成功したからよし。
もう一度椅子の上に立って窓を開ける。生ぬるい風が頬を撫で、部屋の中を荒らしていく。積み重なった紙の束やホコリが宙を舞っているのを横目にみながら、窓の外へ頭を出した。誰もいないパーキングに数台駐車されているのを確認する。車は高級品らしいからぶつからないようにどこに落ちるかを見定める。
ウンウンと唸っていると玄関の方から足音がした。
「はやくしなくちゃ」
落ちる場所は決めた。ここは9階だから生き残ることはまずないだろう。いかに迷惑をかけず消えることができるかを優先するんだ。よし。
去年の誕生日にもらったお手製の人形を抱いて窓から飛び出した。私だけのもの、世界に一つだけの私の宝物。
ずっとずっと大切にするから、一緒にいてね。
【題:世界に一つだけ】
ケラケラと笑い、談笑するのを離れたところからみている。今も昔も変わらない自分がとても情けなくて目を伏せ時間が過ぎるのを静かに待った。
当人らにそんな気はないのだろう。もしあったとしても仕方のないことだ。僕には口出しできないことである。
兄が帰省するたびに僕の存在感は薄くなり、ほぼ透明になる。話しかけても返事はなく、話しかけられるのは用事を頼むときだけ。食事こそ同じ場所で同じものを食べるけど僕がいることで話題に気を遣うのかイマイチ盛り上がらない。はやく食事をすませて出ていけばそれまでの静けさが嘘のように大きな声で話して笑い声まで聞こえる。
また気を遣わせてしまった。このあとまた兄が僕の話しを聞きにくるのだろう。優しさが息苦しいなんて僕は我儘すぎる。
―パキンッ
まただ。最近やたらとこの音が聞こえる。
周りを確認しても誰もいないし何も壊れていない。
―タンッ、タタタンッ
なんだろう、軽快な足音がする。ダンスでもしているかのようだ。
でも、大丈夫なのだろうか。足音に合わせて何がひび割れるような音が聞こえるのに、そんなに力強く踏み込んだりしたら壊れてしまいそう。
「おい、お前大丈夫か?」
ザワザワと騒がしい食卓を囲む家族と唯一僕をみつめる兄がいた。僕の手は血塗れでなんだか足の裏も痛い。
そうか、そうだったのか。
僕は割れたマグカップや食器の上で飛び跳ねた。パキンパキンと割れる音と床を思い切り蹴ってめちゃくちゃなステップを踏む音しか聞こえない。
なんて楽しいのだろう。こんなに心躍る日がくるなんて幸せすぎてどうにかなりそうだ。
誰かの「狂っている」という呟きが妙に耳について癪に障るけど今は許してあげよう。だって僕は幸せだから。
可哀想な誰かさんに慈悲を与えるなんて僕は優しいな。
「そうでしょう、兄さん」
【題:踊るように】
サァ、と雨音が聞こえて目が覚めた。
ぼんやりとした頭で窓の方をみると、勢いよく雨粒が降り込んできているのに気づいて慌てて起き上がる。お腹の上で丸まっていた猫が不服そうに鳴いたけどこればかりは許してほしい。
いきなり立ち上がったせいでふらつく身体を叱咤しなんとか窓を閉めることができた。でも開いている窓はここだけじゃない。寝室や自室の窓も開けっ放しではやく閉めないと大変なことになる。
ガンガンと増していく頭痛に思わずその場に座り込む。元々、偏頭痛持ちではあるけどここまで酷いのは久しぶりでひんやりとした窓ガラスに頭をくっつけたまま動けなくなった。
情けないな、と膨らみはじめたばかりのお腹を撫でていると、先ほどリビングを出ていったはずの猫がすり寄ってきた。珍しく喉を鳴らしながら甘えてくる姿になんだか目頭が熱くなる。小さな頭から背までゆっくりと撫でてやると同じようにゆっくりと私の腹にすり寄ってきた。たったそれだけのことで沈んでいた気分が和らいでいく。
「さすが、母猫先輩だなぁ」
去年出産して3匹の子猫の母となったこの猫はとても頼りになる先輩だ。今も自室で仕事ばかりしていた旦那に喝をいれてきてくれたようで、バタバタと階段を駆け下りてくる足音が近づいてきている。
腹にぴったりと身を寄せる先輩を抱きしめて目を閉じる。ありがとう、というと控えめな鳴き声で返事をしてくれるのにキュンとした。旦那より好きだよ、といえばリビングに駆け込んできた足音がピタリと止まった。
ちらりと様子をみれば情けない顔で項垂れていたから笑ってしまう。本当に先輩には敵わないな。
【題:時を告げる】
バキンッと音がしてようやく足下に目をやった。
粉々に砕けた貝殻が床に散らばっていた。正確な数は分からないけど、両手では掬いきれないほどたくさんある。
ぼんやりとそれらを眺めていたらまた金切り声が部屋の中に響き出した。無遠慮に踏み込んできてより一層声を荒らげ、ガクガクと私の肩を揺さぶる。
黙ったままその人の目をみていたら頬を叩かれた。痛そうな音がするな、と考えていたら今度は反対側を叩かれる。抗議の意を込めてその目をみれば、大粒の涙を零しながらギャンギャンと騒ぎ立てるだけでとても話しなどできそうにない。
―疲れた
その一言さえ発することを許されていないのだ。
偉そうに胸を張って他人を見下すその人こそ、私の生殺与奪の権利を有しているのに情けない。ただ邪魔だから消えろと言えばいいだけなのにそれすらしない。
ひたすら己の自尊心を高めるためだけの行動を繰り返す様は滑稽で、毎日笑いをこらえるのに苦労している。
足下に散らばる貝殻のように踏み潰せたら、なんて。
私もまた狂ってしまったようだ。はやく処分してもらえないかな。
口の中いっぱいに広がる血の味を飲み込んで、その人のヒステリックが終わるのを待つ。これが私の仕事なんだ。
【題:貝殻】