大人はいいものだ。
大人は素敵なものだ。
学生の頃、よく周りの大人は"学生の私"を羨ましがった。
「学生時代はいいよな、人生の夏休みじゃないか!」と。
学生も学生なりに辛いことはあるが、大人ってそんなに楽しくないの?と不安だった。
なんだよ。なんだよ!!
大人、すごく楽しいじゃないか!
大人には大人の自由があって、不自由がある。
家賃も税金もカードの支払いも、そりゃちょっと大変だけど、
それでも、学生を羨ましがるほどつまらなくないじゃないか!
なんだよ、大人。素敵じゃないか。
もがいて悩んで、孤独の中で戦って、寝る前には過去の恥ずかしいことに苦しむけど、それでも後はただただ自分次第。
もうどこに行こうが私の勝手。線路の無い道は素晴らしい。
大人の私には、大人の私の目にしか映らない輝きがあるぞ。
猫の目に街、我の目に未知。
-輝き-
時の流れを、ネガティブな意味で速いと感じた時(例えば、失恋の後、人間関係が疎遠になった時、夢を追いかけていて気づけば月日が流れていた時、など)、私だけが過去を生きている気分になる。
「あの時は、」から始まる文章は美しく儚いが、消化不良の記憶は時に足枷になる。
そんな時に思う。
ああ、時が止まればいいのに。
今は傷を癒す時間が必要で、この傷に絆創膏を貼ろうという意思が必要で、傷がかさぶたになるための時間が必要だ。
ただ、それをするには世界はあまりにも速すぎる。
刻一刻と過ぎて行く時間が私を置いてきぼりにして、傷とわたしだけがどうしようもなくまだここにいるのが恨めしいのだ。
-時よ止まれ-
人間、最初になくなるのは「聴覚に残された記憶」なのに、音楽はしばしば記憶を蘇らせるのは、よくできてるなと思う。
たとえ声を忘れても、その人と過ごした時間の温度や、交わした言葉の余韻は、心のどこかに残り続けるのかもしれない。
例えば、昔よく聴いていた曲がふと流れてきたとき、もう思い出せなくなったはずの声や情景が鮮やかに蘇ることがある。何を話していたかは思い出せなくても、そのときの空気や感情は確かにそこにある。
人は忘れる生き物だけど、大切なものは思いがけない形でふと戻ってくる。声を忘れても、心のどこかで「君の声がする」と感じる瞬間があるのは、なんだか不思議で、少しだけ救われる気がする。
-君の声がする-
いろんなものが終わって行って、勝手に時が過ぎ去ってゆく。
手放すものが増えて、思い出も増えて、
否定的でもなく肯定的でもない、ただ名前のない感情と共に生きる。
永遠なんてない、だからちゃんと悲しもう。
惜しむことで、愛を証明しよう。
-そっと伝えたい-
私たちは今、未来の思い出の中を生きている。
いつか今日という日を思い出して、全てが良い思い出だと笑って欲しい。
今日がどんなに辛くても、苦しくても、あの時の私は上出来だったと褒めて欲しい。
しょうもない日常も、味気ない日々も、思い出になった途端に愛おしくなったりするものだ、とおばあちゃんが言っていた。
未来の私が振り返るための"今"が必要だ。
今日を生きるのは、未来の記憶の中で、私がどうしようもなく生きていた証が欲しいからだ。
今日を生きるのは、未来なんてなくても、不確定な明日という日が来たからだ。
おはよう。
-未来の記憶-