鏡の中の自分を、認められない時があった。
いつもどこかの誰かになりたくて。
なりたい自分を演じて映して、それを本当の自分だって思いたかった。
もしも自分がもう1人いたなら、あの時はあの子のことをすごく雑に扱っていた。
他人には人一倍気を使うのに、その優しさをあの子には向けてあげられなかった。
あの子のことは、どれだけ傷つけても大丈夫だって思ってた。
近過ぎて見えなかったけど、あの子も1人の人だった。
たくさん傷つけたから、すごくボロボロだったのに、分かってたのに、「私もう立ち上がれない」って、全てが手につかなくなるまで気づけなかった。
ああ、そうだった。
あの子は、私だった。
-あなたは誰-
私たちは、突然絶交した。
最後の最後に、私の本当の気持ちを書いた手紙は送らなかった。
初めて本音を書いた、少し棘のある文章だった。
優しさのベクトルが違うから、私は彼女の優しさに鈍くて、しかしまた彼女も私の優しさに鈍感だった。
いつ気づくかなって期待した私がバカだった。
でも今まで、彼女の優しさに気づけなくて申し訳なかった。
でもそれ以上に、私は傷つき疲れて、もう手放したかった。
私は彼女の大切にしているものを好きになれなかった。
そして彼女も私の大切なものを大切にできなかった。
終わらせるしかなかった。
終わらないと、始まれなかった。
2年間の長い夏だった。
彼女との時間は、夏を味わうには十分過ぎる蜜だった。
こうして私が秋を呼んで、彼女が私の夏と同じくらい絶望すればいいと思った。
どうしようもなく好きだった。
-手紙の行方-
大人はいいものだ。
大人は素敵なものだ。
学生の頃、よく周りの大人は"学生の私"を羨ましがった。
「学生時代はいいよな、人生の夏休みじゃないか!」と。
学生も学生なりに辛いことはあるが、大人ってそんなに楽しくないの?と不安だった。
なんだよ。なんだよ!!
大人、すごく楽しいじゃないか!
大人には大人の自由があって、不自由がある。
家賃も税金もカードの支払いも、そりゃちょっと大変だけど、
それでも、学生を羨ましがるほどつまらなくないじゃないか!
なんだよ、大人。素敵じゃないか。
もがいて悩んで、孤独の中で戦って、寝る前には過去の恥ずかしいことに苦しむけど、それでも後はただただ自分次第。
もうどこに行こうが私の勝手。線路の無い道は素晴らしい。
大人の私には、大人の私の目にしか映らない輝きがあるぞ。
猫の目に街、我の目に未知。
-輝き-
時の流れを、ネガティブな意味で速いと感じた時(例えば、失恋の後、人間関係が疎遠になった時、夢を追いかけていて気づけば月日が流れていた時、など)、私だけが過去を生きている気分になる。
「あの時は、」から始まる文章は美しく儚いが、消化不良の記憶は時に足枷になる。
そんな時に思う。
ああ、時が止まればいいのに。
今は傷を癒す時間が必要で、この傷に絆創膏を貼ろうという意思が必要で、傷がかさぶたになるための時間が必要だ。
ただ、それをするには世界はあまりにも速すぎる。
刻一刻と過ぎて行く時間が私を置いてきぼりにして、傷とわたしだけがどうしようもなくまだここにいるのが恨めしいのだ。
-時よ止まれ-
人間、最初になくなるのは「聴覚に残された記憶」なのに、音楽はしばしば記憶を蘇らせるのは、よくできてるなと思う。
たとえ声を忘れても、その人と過ごした時間の温度や、交わした言葉の余韻は、心のどこかに残り続けるのかもしれない。
例えば、昔よく聴いていた曲がふと流れてきたとき、もう思い出せなくなったはずの声や情景が鮮やかに蘇ることがある。何を話していたかは思い出せなくても、そのときの空気や感情は確かにそこにある。
人は忘れる生き物だけど、大切なものは思いがけない形でふと戻ってくる。声を忘れても、心のどこかで「君の声がする」と感じる瞬間があるのは、なんだか不思議で、少しだけ救われる気がする。
-君の声がする-