ワンダラウンド オレンジ色の猫の物語
オレンジ・キャットを知ってるかい?
知らない?
そりゃそうだろう。オレンジ・キャットは夢の世界に住む死神なんだから。
オレンジ・キャットは、身体が名前の通りオレンジ色なのさ。だけど、身体は普通のサイズの猫なんだけど、顔は恐ろしいほど醜い。これはオレンジ・キャットを見た人の心の穢れを写し出しているからなんだってさ。
死神というのはだな、その猫を見た者は夢の世界に永住したくなるんだな。だけど夢って覚めるから夢だろう? だから二度と目が覚めないように現実世界で死のうとするんだ。
オレンジ・キャットは現実世界で死んだ人間の魂を夢の世界へ連れて行くんだって。
そこで、永遠に覚めない夢の世界の住人になるんだ。最近となり町の女子高生が自殺したニュースは知ってるだろ? 遺書に『オレンジ・キャットが呼んでる』って一言だけあったらしい。
オレンジ・キャットは心を病んだ人間の夢に現れるそうだぜ。
お前もメンタルヘルスにはご用心。
じゃ、俺バイト行くからさ。
バイト先?
ピザ屋だよ。俺ピザ生地をクルクル回転させるのが特技なんだぜ?
今度店に来いよ、オレンジジュースも用意してるからさ。
ワンダラウンド
また、私は実に愉快な夢を見た。というより、久しぶりに夢を見たと思う。最近の私ときたら、酷く疲れて夢すらまともに見ていなかった。もしかしたら、夢を見てはいても、すっかり忘れてしまっているのかもしれない。
脳ミソの記憶の引き出しにしまっているあれやこれやを模倣して見せているのが私の夢の世界の設定だ。だから、夢だからってカミソリで小指を切れば痛いし、電車に轢かれればさすがに死ぬ。だけど、夢と現実の決定的な違いは私を苦しめる存在がないことだ。
「やあ、カチューシャ。今日は学校休み?」
私は頭を抱えたくなった。何で夢の中でも大嫌いな学校に行かなきゃいけないんだろう。
「こんにちは、カミングス。悪いけど、私今ひとりでいたいんだ」
カミングスは私の架空の友達だ。現実世界でもたまに頭の中で語りかけてくるから困っている。意外とクールな髪型が気に入ってはいるけど。
「さっき君に似たオレンジ色の猫を見つけたんだ。すごく可愛いかったよ。君に見せたかったんだけどさ、ソイツすばしっこくて…」
「カミングス、ちょっと黙ってなよ」
私はちょうどガラス張りのビルがにょっきりと生えてきたから、その中へと歩みを進めた。
「ふん。そうやって逃げ回っていればいいよ、カチューシャ。君はいずれこの世界の住人になるんだからさ」
私は彼がついて来ないのを確認するとエレベーターホールへ行き、最上階へのボタンを押す。いちばん高いところからこの世界を見下ろすためだ。エレベーターはあっという間に到着した。
ガラス張りの何もない部屋は寂しかったので、双眼鏡とドリンクバーを設置し、オレンジジュースを飲みながら、眼下に広がる世界を眺めていた。
「何が『カチューシャ』だ、馬鹿馬鹿しい」
『カチューシャ』は私の本名じゃない。この世界での仮の名だ。
私は飲みかけのオレンジジュースを床に投げつけて叫んだ。
「私の居場所は『ここ』なんだ! 逃げ回ってもいないし、さ迷い歩いてもいない! どいつもこいつも私の人生を邪魔しやがって、クソ!」
私はガラスの壁面に扉を作り、開けると外に向かって飛び降りた。
地上に墜ちていく間、オレンジ色の猫を抱き抱えたカミングスがにんまりと笑って見ていた。
「何よ、ぜんっぜん似てないじゃない、ブス猫」
ジェームズ・ボンドに愛を告げて
世界最高の大怪盗がアルセーヌ・ルパン氏だとするなら、世界最強の情報特務工作員はジェームズ・ボンド氏だと私は思う。
情報特務工作員、つまりスパイ。冷戦下の大英帝国の秘密機関MI6に所属する彼は『M』からの指令を受け、ワルサーPPKを片手に世界中に潜入する。
私はそんなジェームズ・ボンド氏に愛を告げよう。
アストラル・プロジェクションという行為
まず、行ったのは意識の喪失。
私の意識は、ずっとずうっと深い領域へと降りていく。そこは暗黒でもあり、無でもある。
私の身体と魂を繋いでいる魔法の糸が切れない限り、私はこの世界、宇宙のどこまでも縦横無尽に歩き回り、テレポートすることができる。
昨日、テレビでやってた幽体離脱の方法。まさか、本当にできるだなんて、思ってもなかった。
これは夢? ううん、まさか。私は今、自分の身体を部屋の天井から見下ろしているのだから。
魔法の糸を垂らして。
この糸がもしも切れてしまったら、私は死んでしまうのだろうか。
そもそも、幽体離脱は死の体験なのだろうか。
もしもそうなのだとしたら。
私は喜びを感じていた。
なるほど!これが死だったのか!
気にしないで、私の盟友
「その、答えたくなければ、それでいいんだけど」
僕はリサ・ウェイクフィールドに聞きずらそうに、敢えて彼女のグリーンの目を見ないようにして言った。
「あと一時間後に、君の記憶は全て消えてしまうけど、今、君の心境はどうなの?」
彼女は切なそうに笑って言った。
「とても悲しいわ、ロバート。私は今、とても悲しい。こうして強がって笑っているけど、本当はものすごく怖いの」
僕は耐えられなくなり、彼女を抱き締めた。彼女が嫌がっても、離すもんか。僕は強く強く抱き締めて、彼女の温もりを意識しようとした。
「痛いわ。ロバート」
彼女が身を捩る。
「『愛してる』と言ってくれ。言わなきゃ、離さないぞ」
すると彼女も僕の背中に腕を回した。それから、耳元で囁くように『愛してる、これからも、ずっと』と言った。
全世界で、思春期の女性だけ記憶が全て消えるという奇病が蔓延していた。彼女のリサも感染し、僕は最後の一時間を彼女と共にするために、こっそりと彼女を連れ出した。
僕らは冬の浜辺で海を見ていた。僕と彼女が初めて出会った思い出の場所。無数の星がきらめき、プラネタリウムにいるような気分になった。時計を見ると、残された時間はもう三十分を過ぎていた。
記憶を失うというのは、実質、死を意味している。もう間もなく彼女は僕を認識出来なくなり、彼女を形作っていたものは崩壊してしまう。僕はどうしても泣きたくなかったのに、泣いてしまった。
「泣かないで、ロバート・ハリス」
彼女が僕の涙を拭い、そっとキスをした。
「君が君で無くなるなんて、耐えられないよ。君の記憶が消えたら、僕はあの海へ身を投げようか…」
「ダメよ」
彼女は強く言い放つ。
「そんなの許さない。ロバート、私は別に死ぬわけじゃない。貴方の知らない『何か』になるだけ。これってそんなに悲劇なことじゃないわ。だから、貴方も私もこれまでと同じように生きるの。気にしないで」
彼女の目が淀んでいく。
「今までありがとう。私を唯一理解してくれた盟友。さようなら」
彼女はぐったりと倒れた。僕はもう顔をぐしゃぐしゃにして『かつて彼女だったもの』を砂浜に横たわらせて、金の髪を撫でていた。
しばらくして。
「ふああ、んは。あれ? ここどこ?」
『彼女だったもの』が辺りを見回していた。
「ここはマイアミのサウス・ビーチですよ。僕はロバート・ハリス。君の名前は?」