通常運行
私は極めて冷静だった。
体調は整っていたし、腹は減っていなかった。
しっかり眠れたし、これといって問題は全くない。
ただ、目の前に広がる光景だけは受け入れ難い。
赤。
部屋一面真っ赤の。
それは本当に美しく、残酷な通常運行。
大人の夢
大人になれば、何でもできると思っていた。
誰もがたくましく生きていけると思っていた。
大人は本来完璧なはず。
でも、そうじゃなかったみたいだ。
憧れていた酒は気持ち悪くて飲めなかった。
憧れていたタバコは何もカッコ良くなかった。
免許を取っても車になんか乗りたくなかった。
異性と恋をしても疲れるだけだった。
鏡を見てみろ。
目の前のやつれた、弱々しいその姿がお前が夢見ていた『大人』だ。
日々のストレスを引きずり。
引きこもるようになり。
何もかもが破綻した今のお前は。
今のこの自分が、大人だって?
悪い冗談じゃないのか?
本当の自分はまだ幼い子供で、きっと悪夢を見ているに違いない。
なあんだ、ただの夢だったのか。
こんなヤツが、ぼくのはずじゃない。
ぼくはまだ、こども。
そうだよね。
そうだといってよ。
ああ、はやくがっこうにいかなきゃ。
せんせいが。ともだちが。
ぼくをよんでる。
だれか、たすけてくれ
もう一度生まれてきたら
もう一度生まれてきたら
まず君に会いたい
もう一度生まれてきたら
悲しませたことを、謝りたい
もう一度生まれてきたら
今度は前よりもっと優しい人になりたい
もう一度生まれてきたら
私を支えてくれた人達に感謝したい
もう一度生まれてきたら
自分の限界を決めつけず、ただ前進したい
もう一度生まれてきたら
空が青くて、星が輝いていたことを確かめたい
もう一度生まれてきたら
もう一度生まれてきたら
君を傷つけずに、守ってあげたい
だから、私にもう一度チャンスをください。
レコードの針とあなたと
私はレコードをかける。
華やかな音楽が流れ、憂鬱な夜がロマンチックなものに変わる。
いつの間にか、あなたが部屋にいた。
私の手を取り、ダンスへと誘導する。
私は踊れない。
それでも構わないと、あなたは私をリードする。
あなたはとても暖かい。
あなたの温もりを感じていると、つい足を踏んでしまった。
気にしないでくれ、とあなたは微笑む。
レコードの針のノイズ音がとても切ない。
曲が終わってしまうことが悲しい。
でも、いつまでも踊り続けることはできない。
曲が終わりに差し掛かる頃、私は踊るのをやめて、あなたの腕の中へと身体を預けた。
あなたは微笑んだ。
私は何度も何度もあなたの名前を呼んだ。
素敵な夜だった。
レコードは、もう鳴らない。
針は折れてしまっている。
道路の真ん中で私は横たわっていた。
頭から血だまりができている。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
あなたが誘導してくれるのを、待っていた。
川
僕は浮き沈みを繰り返す。
左に、右に、上に、下に。
とても気持ちが良いんだ。
感じるのは恍惚だけ。
僕の身体は、とっくに朽ちたんだ。
悲しみの果てに、涙は川になった。
僕はそこをずっと流れている。
透明な涙の川に、僕の真っ黒なハートが溶け込む。
そして川は黒く染まっていく。
全て混ざり合っている。
脳も、心臓も、神経も、細胞も。
ここはいたって平和だよ。
もう失うものは何一つないから。
母親の子宮の中にいるようだ。
この切ないような安心感を、僕は覚えている。
そこは羊水に満たされていた。
世界でいちばん安全な場所だった。
ああ、母さん。懐かしい響きがする。
母さん。母さん。
声を出そうとしても、泡が水面へと昇るだけ。
心が溶けてしまいそうだ。
大勢の人間が僕を覗き見ている。
その中に、彼女の姿。
その中に、幼い僕自身の姿。
僕を愛してくれたたくさんの人々。
さようなら。
でも、もう会いたくないかな。二度と。
僕は流れていく
僕は流れていく
僕は流れていく
僕は流れていく
僕は流れていく
緩やかに。