生きてきた中で一番嬉しかった言葉は何ですか?
いつもと変わらない教室。その窓の外で、散りきれなかった桜の残骸がはらはらと舞い落ちていく。雲一つない青空から、柔らかな風が教室に流れ込んだ。
「茜、帰ろう」
前の席にいた想は、相変わらず支度が早い。よほどこの教室に長居したくないらしい。
「……想!」
「さっき、何読んでたの」
教室の隅で、いつものように本を読んでいた私を、彼は不思議そうに見る。まるで未知の生き物でも眺めるみたいに。
「少女漫画だよ」
「?」
想は目を丸くした。
「かっこいい人と、かわいい人が恋愛するの。幸せなやつ。ほら……現実の私じゃ叶わないから」
「叶ってるじゃん」
「叶ってないよ」
「……俺、茜の“彼氏枠”から外された?」
「違う! 想はかっこいいからいいじゃん。私は……違うじゃん」
「かわいいよ?」
「かわいくないってば」
「かわいいよ」
「かわいくないってば」
彼の手を払いのけた瞬間、勢い余って私の手が想の頬に当たった。
「……ごめん」
想は少し寂しそうに視線を落とし、それでもそっと私の手を握る。
「茜。俺は、茜に出会えて幸せだよ」
その言葉は今の私にとっては眩しいくらい痛かった。
「明日への光」
今を、生きていますか?
今日は、嫌な予感がしていた。
理由はない。ただ、こういう感覚は外れない。
朝の星座占いは最下位で、ラッキーアイテムの星のアクセサリーを身につけたけれど、胸元で揺れるそれは、ただ冷たかった。
雨が降り出す直前の、世界が息を止めたような空気。
私は足を速め、立ち入り禁止の林を抜ける。
誰もいない開けた場所に、想は立っていた。
そこに「いる」というより、もうこの場所に縛り付けられている影のようだった。
「……想」
「茜、どうして」
声は低く、輪郭が曖昧だった。
「戻ろう。話そう」
想は少し困ったように笑って、空を見上げる。
「僕はね、今日、星になるんだ」
「想!いい加減にして」
「……茜は嘘つきだね」
責める響きはなく、ただ静かだった。
「僕が悪い方に落ちていくとき、一緒に落ちてくれるって言った。忘れちゃった?」
言葉が喉でほどけて、何も言えない。
「ここには誰もいないよ」
風が林を揺らす。
「不安はね、僕にとっての最高の隠れ家なんだ」
少し間を置いて、こちらを見ないまま続ける。
「……茜、ごめんね」
その声は、降りはじめた雨に溶けて、どこまでが想なのかわからなくなった。
その瞬間、彼は足元を離した。
身体がふっと軽くなって、想は崖の方へ傾いていく。
「想——!」
私は反射的に腕を伸ばし、彼の腕を掴んだ。
「茜、離して」
「やだ、いやだ、やだ……!」
自分でも驚くほど幼い声だった。
小さな子どもみたいに、ただ拒むことしかできない。
想は、そんな私を見下ろして、
嬉しそうに目を細めた。
「茜、僕が死ぬときにさ、そんなぐちゃぐちゃな顔で泣いてくれるんだ」
雨と涙で滲む視界の中で、彼は穏やかに笑う。
「その顔、好きだな。もっと見たい」
胸が、壊れる音がした。
「僕が死んだあと、ぼろぼろになって、狂って、全部壊してしまう茜が好きだ、好きだよ茜」
感情をなくしたように笑う彼が愛おしく、美しいと思ってしまう私が憎かった。
「星になる」
一生に出会える人の数は、およそ三万人だと言われている。
じゃあ、あなたは――出会えないはずだった運命を、覆したことはあるだろうか?
最近は想や茜の話が多かったから、今日は少しだけ、僕――梶原唯月の話をさせてほしい。
最初に言っておくけれど、僕は想や茜みたいに、独特な感情表現や哲学的な思想を持っている人間じゃない。正直に言えば、僕の話はきっと面白くない。だから、読まなくても構わない。
それでも今日、なぜ僕が主役になるのかというと――
「遠い鐘の音」
この言葉を聞いたとき、どうしても語っておきたい、僕らの出会いの断片を思い出してしまったからだ。
これまであまり触れずに話してきたから、ここで簡単に人物紹介をしておこう。
まずは、想。
とにかく顔がいい。正直、それ以外の表現が見つからないほど、時代に愛されるような顔をしている。
ただし、裏の顔もある。彼はその顔で金を稼ぐ仕事をしている。詳しいことは、いつか想自身が話すだろう。そのときは、彼の言葉で聞いてやってほしい。
次に、茜。
彼女は想とは正反対で、この時代ではもてはやされない顔立ちをしている。そして、醜形恐怖症に苦しんでいる女の子だ。
彼女は身体を使って金をもらっている。具体的な話は、きっと彼女が話したくなったときに語るだろう。そのときは、どうか否定せず、肯定してやってほしい。
そして、今日語っている梶原唯月という人物――
僕は、現世の人間じゃない。
いや、正確に言えば、生きてはいた。
ただ、想や茜と同じ時代には生きていない。
ある人の身体を借りて、彼らと同じ時代を生きている存在だ。
どうしてそんなことができるのか。
話せば長くなるから、端的に言おう。
僕が来た“あの世”には、一つのルールがある。
十二時に鐘の音が鳴った瞬間、今という時代の記憶の中に入り込める――それだけだ。
変な話だろう。
何が言いたいのかというと――
君が出会った友達、家族、知人。
そのすべてが、同じ時間を生きている人間とは限らないかもしれない、ということだ。
そんなことあるわけないって?
そうだよな。
笑える話だ。
ちょっと面白いだろう?
自分のことを愛していますか?
「ねぇ、本当にここで合ってるの?」
人里離れた、風の音しか聞こえない殺風景な街に出た。夜の匂いが濃い。
「たぶんね」
想はいつも通り、曖昧な返事しかしない。
二日前、彼から突然「行きたいところがある」と連絡が来た。断る理由が思いつかなくて、私はそのままここまで来てしまった。
「どうしてここに来たかったの?」
「んー? 僕のオカルト好きの友達が言ってたんだけどね、魂が吸い取られる場所があるんだって。そこに行きたいんだ」
「梶原のこと?」
「よくわかったね。茜もあいつと仲いいし」
また、あいつが想に変なことを吹き込んだんだろう。
「茜、見て。夜空がきれいだよ」
街灯がないせいか、星ひとつひとつが意志を宿したように強く光り、想の横顔と重なって見えた。
「星になりたいな」
「どういうこと?」
「死んだら星になるんだよ。僕、今日星になりにきたんだ」
「想は星になれないよ」
「えー? なんで?」
「私が、想を好いてるから」
想は小さく笑った。
「違うよ。茜は僕が好きなんじゃない。僕を好いている“茜自身”を、茜は好きなんだよ。それを僕への好意だと錯覚してるだけ」
「想といると自分らしくいられるよ」
少しの沈黙に彼は小さく息を吸う。
「人ってさ、『自分らしさ』や『本当の自分』って言葉をよく使うけど、そもそも“本当の自分”なんてどこにもないのかもしれない。
僕たちの内側にある自己は、相手や状況によって絶えず形を変える。固定されたひとつの姿を持つことはないのに、人はなぜかひとつの“核”のような自分を求める。
多分、自己というものがあまりに曖昧で不確かで、自分自身でさえその輪郭を掴めないからだろう。だからこそ、人は知りたがる。どこかへ向かおうとする。まだ出会っていない“自分”を、確かめるためにね」
「好きだよ、想」
「違うよ」
どうしてだろう。
どんなに言葉を尽くしても、彼の心に私がいることはない。
彼の世界に私は入ることはできない。
彼の瞳に私はいない。
夜空の中のひとつの空間にいるはずなのに、同じ呼吸をしていないみたいだった。
「夜空を越えて」
自分を見失うほど愛してしまった人はいますか?
「想って、結局……茜のせいで死んだってことなの?」
「どうしていつも梶原は、そんなふうに決めつけるの?」
「……あー、ごめん。じゃあ質問を変えるよ。どうして茜は、あんなに想に執着してたの? いつも死にたそうで、孤独な人だったのに」
「親友なのにひどいこと言うんだね。想のこと、何も分かってなかったんじゃない?」
「じゃあ茜は、想のこと分かってたって言うの? どこが好きだったの?」
「どこって……そんなの——」
記憶の断片を、暗闇の中で手探りするように思い返す。
初めて会った瞬間から、最初から最後まで、想は“死”を夢みるみたいに語る人だった。
日常のすぐ隣に死があるかのように、静かに、淡々と。
生きているはずなのに、生の輪郭の外側に立っているようなその横顔を——私はどうしようもなく、隣で見ていたいと思ってしまった。
そもそも彼は、自分の“死”への考えを、誰よりも先に、私だけに語ってくれた。
それが、私が彼に惹かれた理由だった。
——死というのは、終わりじゃないよ。
それは、無数の問いが沈殿した果てに現れる“答えの形”なんだ。
人は生きている間、絶えず自分に問いを投げかける。
なぜ生まれたのか。
なぜ苦しいのか。
なぜ愛してしまうのか。
その問いのどれひとつ、言葉では解けない。
だけど死だけが、それらの沈黙に終止符を打つ。
死は破壊ではなく、理解の完了なんだ。
生きるというのは、無数の“未完の答え”を抱えて歩くこと。
此岸と彼岸の境界線とは、きっとその“問いの終着点”で、そこで初めて人は、自分という存在の輪郭を知る。
だから僕は死を否定しないよ。
死を恐れず、死の中に自己を見た。
それは逃避ではなく、“存在の完成”という名の帰還だと思っているから。
——久しぶりに聞く、想の饒舌だった。
意味を持たない日常の中で、彼だけが“意味”を探していた。
それが彼の“癖”であり、生き方だった。
「おーい茜? 聞いてる?」
「ごめん……ちょっと、記憶が飛んでた」
「で? どこが好きだったの?」
「どこって……全部だよ」
死にたがる想が、生にしがみつくようにもがき、苦しむ姿。
その矛盾も、弱さも、痛みも——
私はどうしようもなく、愛おしかった。
「ぬくもりの記憶」