今を、生きていますか?
今日は、嫌な予感がしていた。
理由はない。ただ、こういう感覚は外れない。
朝の星座占いは最下位で、ラッキーアイテムの星のアクセサリーを身につけたけれど、胸元で揺れるそれは、ただ冷たかった。
雨が降り出す直前の、世界が息を止めたような空気。
私は足を速め、立ち入り禁止の林を抜ける。
誰もいない開けた場所に、想は立っていた。
そこに「いる」というより、もうこの場所に縛り付けられている影のようだった。
「……想」
「茜、どうして」
声は低く、輪郭が曖昧だった。
「戻ろう。話そう」
想は少し困ったように笑って、空を見上げる。
「僕はね、今日、星になるんだ」
「想!いい加減にして」
「……茜は嘘つきだね」
責める響きはなく、ただ静かだった。
「僕が悪い方に落ちていくとき、一緒に落ちてくれるって言った。忘れちゃった?」
言葉が喉でほどけて、何も言えない。
「ここには誰もいないよ」
風が林を揺らす。
「不安はね、僕にとっての最高の隠れ家なんだ」
少し間を置いて、こちらを見ないまま続ける。
「……茜、ごめんね」
その声は、降りはじめた雨に溶けて、どこまでが想なのかわからなくなった。
その瞬間、彼は足元を離した。
身体がふっと軽くなって、想は崖の方へ傾いていく。
「想——!」
私は反射的に腕を伸ばし、彼の腕を掴んだ。
「茜、離して」
「やだ、いやだ、やだ……!」
自分でも驚くほど幼い声だった。
小さな子どもみたいに、ただ拒むことしかできない。
想は、そんな私を見下ろして、
嬉しそうに目を細めた。
「茜、僕が死ぬときにさ、そんなぐちゃぐちゃな顔で泣いてくれるんだ」
雨と涙で滲む視界の中で、彼は穏やかに笑う。
「その顔、好きだな。もっと見たい」
胸が、壊れる音がした。
「僕が死んだあと、ぼろぼろになって、狂って、全部壊してしまう茜が好きだ、好きだよ茜」
感情をなくしたように笑う彼が愛おしく、美しいと思ってしまう私が憎かった。
「星になる」
一生に出会える人の数は、およそ三万人だと言われている。
じゃあ、あなたは――出会えないはずだった運命を、覆したことはあるだろうか?
最近は想や茜の話が多かったから、今日は少しだけ、僕――梶原唯月の話をさせてほしい。
最初に言っておくけれど、僕は想や茜みたいに、独特な感情表現や哲学的な思想を持っている人間じゃない。正直に言えば、僕の話はきっと面白くない。だから、読まなくても構わない。
それでも今日、なぜ僕が主役になるのかというと――
「遠い鐘の音」
この言葉を聞いたとき、どうしても語っておきたい、僕らの出会いの断片を思い出してしまったからだ。
これまであまり触れずに話してきたから、ここで簡単に人物紹介をしておこう。
まずは、想。
とにかく顔がいい。正直、それ以外の表現が見つからないほど、時代に愛されるような顔をしている。
ただし、裏の顔もある。彼はその顔で金を稼ぐ仕事をしている。詳しいことは、いつか想自身が話すだろう。そのときは、彼の言葉で聞いてやってほしい。
次に、茜。
彼女は想とは正反対で、この時代ではもてはやされない顔立ちをしている。そして、醜形恐怖症に苦しんでいる女の子だ。
彼女は身体を使って金をもらっている。具体的な話は、きっと彼女が話したくなったときに語るだろう。そのときは、どうか否定せず、肯定してやってほしい。
そして、今日語っている梶原唯月という人物――
僕は、現世の人間じゃない。
いや、正確に言えば、生きてはいた。
ただ、想や茜と同じ時代には生きていない。
ある人の身体を借りて、彼らと同じ時代を生きている存在だ。
どうしてそんなことができるのか。
話せば長くなるから、端的に言おう。
僕が来た“あの世”には、一つのルールがある。
十二時に鐘の音が鳴った瞬間、今という時代の記憶の中に入り込める――それだけだ。
変な話だろう。
何が言いたいのかというと――
君が出会った友達、家族、知人。
そのすべてが、同じ時間を生きている人間とは限らないかもしれない、ということだ。
そんなことあるわけないって?
そうだよな。
笑える話だ。
ちょっと面白いだろう?
自分のことを愛していますか?
「ねぇ、本当にここで合ってるの?」
人里離れた、風の音しか聞こえない殺風景な街に出た。夜の匂いが濃い。
「たぶんね」
想はいつも通り、曖昧な返事しかしない。
二日前、彼から突然「行きたいところがある」と連絡が来た。断る理由が思いつかなくて、私はそのままここまで来てしまった。
「どうしてここに来たかったの?」
「んー? 僕のオカルト好きの友達が言ってたんだけどね、魂が吸い取られる場所があるんだって。そこに行きたいんだ」
「梶原のこと?」
「よくわかったね。茜もあいつと仲いいし」
また、あいつが想に変なことを吹き込んだんだろう。
「茜、見て。夜空がきれいだよ」
街灯がないせいか、星ひとつひとつが意志を宿したように強く光り、想の横顔と重なって見えた。
「星になりたいな」
「どういうこと?」
「死んだら星になるんだよ。僕、今日星になりにきたんだ」
「想は星になれないよ」
「えー? なんで?」
「私が、想を好いてるから」
想は小さく笑った。
「違うよ。茜は僕が好きなんじゃない。僕を好いている“茜自身”を、茜は好きなんだよ。それを僕への好意だと錯覚してるだけ」
「想といると自分らしくいられるよ」
少しの沈黙に彼は小さく息を吸う。
「人ってさ、『自分らしさ』や『本当の自分』って言葉をよく使うけど、そもそも“本当の自分”なんてどこにもないのかもしれない。
僕たちの内側にある自己は、相手や状況によって絶えず形を変える。固定されたひとつの姿を持つことはないのに、人はなぜかひとつの“核”のような自分を求める。
多分、自己というものがあまりに曖昧で不確かで、自分自身でさえその輪郭を掴めないからだろう。だからこそ、人は知りたがる。どこかへ向かおうとする。まだ出会っていない“自分”を、確かめるためにね」
「好きだよ、想」
「違うよ」
どうしてだろう。
どんなに言葉を尽くしても、彼の心に私がいることはない。
彼の世界に私は入ることはできない。
彼の瞳に私はいない。
夜空の中のひとつの空間にいるはずなのに、同じ呼吸をしていないみたいだった。
「夜空を越えて」
自分を見失うほど愛してしまった人はいますか?
「想って、結局……茜のせいで死んだってことなの?」
「どうしていつも梶原は、そんなふうに決めつけるの?」
「……あー、ごめん。じゃあ質問を変えるよ。どうして茜は、あんなに想に執着してたの? いつも死にたそうで、孤独な人だったのに」
「親友なのにひどいこと言うんだね。想のこと、何も分かってなかったんじゃない?」
「じゃあ茜は、想のこと分かってたって言うの? どこが好きだったの?」
「どこって……そんなの——」
記憶の断片を、暗闇の中で手探りするように思い返す。
初めて会った瞬間から、最初から最後まで、想は“死”を夢みるみたいに語る人だった。
日常のすぐ隣に死があるかのように、静かに、淡々と。
生きているはずなのに、生の輪郭の外側に立っているようなその横顔を——私はどうしようもなく、隣で見ていたいと思ってしまった。
そもそも彼は、自分の“死”への考えを、誰よりも先に、私だけに語ってくれた。
それが、私が彼に惹かれた理由だった。
——死というのは、終わりじゃないよ。
それは、無数の問いが沈殿した果てに現れる“答えの形”なんだ。
人は生きている間、絶えず自分に問いを投げかける。
なぜ生まれたのか。
なぜ苦しいのか。
なぜ愛してしまうのか。
その問いのどれひとつ、言葉では解けない。
だけど死だけが、それらの沈黙に終止符を打つ。
死は破壊ではなく、理解の完了なんだ。
生きるというのは、無数の“未完の答え”を抱えて歩くこと。
此岸と彼岸の境界線とは、きっとその“問いの終着点”で、そこで初めて人は、自分という存在の輪郭を知る。
だから僕は死を否定しないよ。
死を恐れず、死の中に自己を見た。
それは逃避ではなく、“存在の完成”という名の帰還だと思っているから。
——久しぶりに聞く、想の饒舌だった。
意味を持たない日常の中で、彼だけが“意味”を探していた。
それが彼の“癖”であり、生き方だった。
「おーい茜? 聞いてる?」
「ごめん……ちょっと、記憶が飛んでた」
「で? どこが好きだったの?」
「どこって……全部だよ」
死にたがる想が、生にしがみつくようにもがき、苦しむ姿。
その矛盾も、弱さも、痛みも——
私はどうしようもなく、愛おしかった。
「ぬくもりの記憶」
季節の境目が来ると、会いたくなる人はいますか?
凍える指先で、私は何度も文字を打つ。
想
想
想
――なに?
雪だよ!
――そうだね。
冬だよ!
――そうだね。
おはよう
――おはよう。
朝から彼とのやり取りに胸が躍る。
震える指先を見つめながら、彼の返事をじっと待つ。
正直、どうしてここまで惹かれたのか自分でもわからない。
いつも曖昧な答えしかくれなくて、
真正面から話そうとすればすぐに視線をそらす。
まるで遠い何かを探すように、別の方向ばかり見ていた彼が、嫌いだった。
――けれど、惹かれた。
死の間際を行き来した人の匂いがしたからだ。
此岸と彼岸の境界を、かろうじて踏みとどまっているような気配。
彼が絶望の底を知っているからこそ、あの瞳は深く沈んでいた。
何かを見たいと願いながら、
実際にはどこにも焦点を合わせない目。
世界の音に耳を傾けることすらやめ、
ただ通り過ぎていく日々を眺めてきた耳。
白い吐息をこぼすたび、
「生きている」という事実を確かめるだけの口。
無力で、無価値で、それでもなお、
この不条理な世界でもがきながら生きようとする――
そんな、人間のかたちをしたかすかな灯。
きっとそういう人は、
死と生のあわいをぐるぐると循環しながら、この世界を漂い続けているのだと思う。
「茜、待った?」
彼が私の顔を覗き込む。
「待った!もう、めっちゃ待った」
「それはごめん」
彼はそっと私の手をつかみ、自分のポケットに入れる。
「冷たいなー、凍っとるやん手」
「んー、もう大丈夫かも。想のおかげ」
彼は雪のような人だけど、
同時に太陽のような人でもある。
あの白い季節になると、私はまた彼を思い出す。
「凍える指先」