8:06
いつもの列車。
車内アナウンスが今後の停車駅を順に告げていく。
前から五両目の右端のドアから入り、向かいの降車ドアに彼を認めた。
目を閉じ、ワイヤレスイヤホンで何かを聴いている。
細い睫毛がエアコンの風に震えている。
彼との接点は、あの時だけ。
あの日、
いつもだったら十両編成の列車の、前から一両目に乗車していた私は、他の路線が信号機の不具合により運転見合わせとなった影響でホームが大混雑したため、後ろの車両にスペースを探さざるを得なくなっていた。
いつもと違う状況に、私はかなり焦っていたんだと思う。
ポニーテールにしていた髪から、祖母の形見のシュシュが落ちたことにさえ、気づかないほどに。
「これ、落としましたよ」
右肩を叩かれて振り向くと、目の前に祖母の形見のシュシュがあり、見上げた先に、長めの金髪頭、両耳に緑色や銀色のピアスが光り、細い睫毛が空気に震える切れ長の目をした、きれいな顔立ちの男性がブレザー姿で立っていた。おそらく他校の制服だろう。
いまだかつて出会ったことのなかった人種に、私はすぐに返事ができなかった。
「え?あ、…ありがとうございます」
やっと出した声は変に掠れていて、周りの雑踏に搔き消され、彼の耳には届かなかったかもしれなかった。
シュシュを受け取ろうとした時、発車ベルが鳴り、車掌がマイク越しに声を張り上げた。
「間もなく扉が閉まります。駆け込み乗車はお止めください」
はっと彼は車両と私を交互に見たかと思うと、おもむろにシュシュに伸ばした私の腕を掴み、
「あんたも乗るよな?」
と、またも返答する間もなく、私を引っ張って五両目に飛び込んだ。
なんでこうなったの!?
私は、パニック状態になった。
確かに、乗るつもりだったけど。
でも、知らない人、というか、祖母の形見を拾ってくれた恩人と、まさか一緒に乗るなんて、てか―。
「これ」
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、リュックを前に抱え、扉に片腕を伸ばした状態で、彼はもう一方の手で私の前にシュシュを差し出した。その時、爪先立ちしても吊革に届かない低身長の私が圧迫されないように、彼が気遣ってくれていたことに、私は気がついた。
カッと頬が熱くなる。
「あ、ありがとうございます。」
シュシュを受け取り、左手首にはめた。学校の最寄り駅に着いたら、髪を結び直そう。
「顔赤いけど、熱い?しんどくなってないか?」
頬の赤みに気づいた彼が神妙な顔で聞く。
私は顔の前で両手を横に振った。
「だ、だいじょぶ…です」
胸が、ドキドキして苦しい。
学校の最寄り駅は快速でたった二駅。
それなのに、いつも以上に長く乗っているみたいに感じた。
結局、降車駅は私が先で、彼がどこで降りるのかは知らないままだ。制服から学校を割り出すことも出来なくはないけど、本人に黙って調べるのは何となく気が引けて、検索にかけるのはやめた。
彼と話すきっかけになるものは、できるだけ残しておきたい。
「どこの学校に行ってるんですか?」
そう、聞けたらいいのに。
話しかけることができたらいいのに。
目を閉じて音楽を聴いてる人が相手なんて、ハードルが高すぎる。
そこへ、彼と同じ制服、同じ背格好でツンツン頭の男性が車両の接続扉を開けて、五両目
の後方へ行こうとしたところ、彼の真横で歩を止めた。
出し抜けに、男性は右手の人差し指で彼の右頬を突っついた。
カッと彼が両目を見開き、仰け反った。
あ、
瞬間、彼と目が合った。
私の心臓が、確かに跳ね上がった。
『胸が高鳴る』
「『不条理』?」
新作の構想を練っていた、二年生の池永由良が顔をあげてしかめた。ある熟語の否定系なんて、今まで候補に挙がったことがあっただろうか。一年生の時に入部してから、動詞こそあまり無かったものの、名詞とかポジティブな熟語とか、字面も意味もシンプルな傾向にあったように記憶している。
そんな由良の反応など、とうに分かりきっていたというようなすまし顔で、同じ二年生の藤代登吾は続けた。
「そ、今度の学祭で配布する作品集のテーマにするんだと。さっちんから皆に言っといてってさ」
両手をヒラヒラさせながら、さも興味なさそうに言って、登吾は長机に座った。さっちんとは、当文芸部の顧問、佐知川輝明先生の隠れた渾名だ。
「登吾先輩、机は作品を生み出すための神聖な場所です。椅子に座ってください。」
眼鏡の縁を持ち上げ、冷たい水が川に流れるかのような響きで、一年生の浜里燈が登吾を嗜めた。
「ひゃ~、浜里サンは怖い怖い」
登吾は大げさに肩を竦めて傍にあったパイプ椅子を引き寄せた。
「そんな態度だから、浜里さんに嫌がられちゃうんですよ」
一年生の和映人が漫画本を両手で開いたまま、苦笑した。
「えぇ~、何それ。俺、そんな嫌われてんの?」
登吾が心外だという顔をする。
そこに燈がサッと左手を挙げ、
「登吾先輩から受けた被害、六月十一日文庫本コーラ染め事件、七月二十三日単行本生クリーム噴射事件、八月…」
日付毎に指折り、朗々と続けていく。
登吾がおでこに右手をあてて、天を仰いだ。
「誰がそんな痛ましい事件を…」
「こんな片手じゃ収まりきらない事件の数々ほど、不条理なものはありません。」
燈が憮然として言った。
『不条理』
診察室を出て、一礼する。
扉が閉まる一瞬、
会釈を返した主治医の能面が焼き付く。
ふっと嘆息が漏れる。
だが、まだマシな方ではないか。
このクリニックにたどり着くまでは、
果たして相性だけの問題なのかと、
担当する医師が合わなさすぎて
己のくじ運の悪さを嘆かない日はなかった。
門前払いされないだけ
ぞんざいに扱われないだけ
まだマシなのだ。
待合室の椅子に座り、スマホに触れる。
カレンダーを開き、明日の予定に目を留めた。
●出社日
最後の、出社日だ。
デスク周りとロッカーの荷物をまとめ、掃除をする。それを3時間で終えなくてはならない。
時間がたっぷりあるように見えて、管理職との面談時間も込みであろうことを予想すると、ギリギリかもしれない。
持ち帰り用のエコバッグ、提出する書類や返却物を一通り頭に思い浮かべていると、
受付窓口上の液晶画面に新たな番号が通知音と共に点滅した。
このクリニックでは、患者は受付順に番号札をもらい、その番号が液晶画面に掲示されてはじめて、診察や検査を受けることができる仕組みになっている。顔見知りでない限り、周りに名前を知られることはない。
名も知らない老若男女が、通知音に一斉に反応して液晶画面を食い入るように見る姿は、役所での徒労感を思い起こさせた。
今回の診察では、意を決して、診断書を作成してもらうことにした。
眠れない日が続き、やっと眠れても悪夢に苛まされ、終いには叫び声を上げた。
不安や焦燥感が強くなり、肌を搔きむしって血が滲み、目立つ傷が増えた。
心配する家族の言葉を笑い飛ばし、周りも自分も騙し騙しで何とか凌いできたが、いよいよ生活が壊れ始めていた。
「これで何度目だ」
分かってる。
此れは、自分の声だ。
自分こそ、また繰り返すなんて思いもしなかった。
劣等感が呪いとなって、自分をがんじからめにしているのは分かる。
だが、現状を理解できることと、現状を打破できることは似て異なる。
少なくともいまの自分には、職を辞することが最善としか思えない。考えつかない。
それくらい、追い込まれてしまったのだ。
己の不甲斐なさに、先輩上司の前で散々泣いた。悔し涙だった。
それで何かが変わるわけはなかったが、自分が此処を去ることは必然だったのだと思えるようにはなった。
私は悲劇の主人公じゃない。
ここから、第二幕が始まるんだ。
悲劇にするのか、喜劇にするのか、それは自分次第だ。
新しい番号が通知音と共に点滅する。
私は立ち上がり、番号を見つめながら真っ直ぐに歩き出した。
同じ苦しみを繰り返し味わうのは、もう、懲り懲りだ。
あんな泣き方はするものか。
『泣かないよ』
バイトが終わって
自宅に戻る道すがら
ずっと君のことを考えている
いま、何をしてるかな?
LINEしようかな?
でも、誰かと一緒だったら…
私って、邪魔者かな
迷惑って思われるかな
私の頭の中を
そんな思考がグルグル廻る
そう
私は臆病者なのだ
『怖がり』
まるで要塞のような
威圧感と重厚感が滲み出る
建設間もないゴミ焼却場に向かう
坂道の途中に
ひっそりと
その公園はあった
標高が高い町の
そのさらに高台にある公園は
近場にゴミ焼却場があるという立地上
人気は少なかった
晴天の夜に見上げる空は
天然のプラネタリウム
という言葉を口にすることすら
あまりにも陳腐すぎて閉口してしまうほどの
360度無数の煌めきに溢れていた
まるで意図せずに
自身が宇宙空間に放り出されたような
錯覚に陥りそうになる
夜な夜なこの公園を訪れる人は
そんな星々の息吹に魅せられた人たちだ
自分だけの宇宙が其処にあると
知り得た人たちなのだ
『星が溢れる』