マナ

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3/19/2024, 1:39:54 PM

8:06
いつもの列車。
車内アナウンスが今後の停車駅を順に告げていく。
前から五両目の右端のドアから入り、向かいの降車ドアに彼を認めた。
目を閉じ、ワイヤレスイヤホンで何かを聴いている。
細い睫毛がエアコンの風に震えている。
彼との接点は、あの時だけ。

あの日、
いつもだったら十両編成の列車の、前から一両目に乗車していた私は、他の路線が信号機の不具合により運転見合わせとなった影響でホームが大混雑したため、後ろの車両にスペースを探さざるを得なくなっていた。
いつもと違う状況に、私はかなり焦っていたんだと思う。
ポニーテールにしていた髪から、祖母の形見のシュシュが落ちたことにさえ、気づかないほどに。

「これ、落としましたよ」
右肩を叩かれて振り向くと、目の前に祖母の形見のシュシュがあり、見上げた先に、長めの金髪頭、両耳に緑色や銀色のピアスが光り、細い睫毛が空気に震える切れ長の目をした、きれいな顔立ちの男性がブレザー姿で立っていた。おそらく他校の制服だろう。

いまだかつて出会ったことのなかった人種に、私はすぐに返事ができなかった。
「え?あ、…ありがとうございます」
やっと出した声は変に掠れていて、周りの雑踏に搔き消され、彼の耳には届かなかったかもしれなかった。
シュシュを受け取ろうとした時、発車ベルが鳴り、車掌がマイク越しに声を張り上げた。
「間もなく扉が閉まります。駆け込み乗車はお止めください」
はっと彼は車両と私を交互に見たかと思うと、おもむろにシュシュに伸ばした私の腕を掴み、
「あんたも乗るよな?」
と、またも返答する間もなく、私を引っ張って五両目に飛び込んだ。

なんでこうなったの!?
私は、パニック状態になった。
確かに、乗るつもりだったけど。
でも、知らない人、というか、祖母の形見を拾ってくれた恩人と、まさか一緒に乗るなんて、てか―。

「これ」
ぎゅうぎゅう詰めの車内で、リュックを前に抱え、扉に片腕を伸ばした状態で、彼はもう一方の手で私の前にシュシュを差し出した。その時、爪先立ちしても吊革に届かない低身長の私が圧迫されないように、彼が気遣ってくれていたことに、私は気がついた。
カッと頬が熱くなる。
「あ、ありがとうございます。」
シュシュを受け取り、左手首にはめた。学校の最寄り駅に着いたら、髪を結び直そう。

「顔赤いけど、熱い?しんどくなってないか?」
頬の赤みに気づいた彼が神妙な顔で聞く。
私は顔の前で両手を横に振った。
「だ、だいじょぶ…です」
胸が、ドキドキして苦しい。
学校の最寄り駅は快速でたった二駅。
それなのに、いつも以上に長く乗っているみたいに感じた。

結局、降車駅は私が先で、彼がどこで降りるのかは知らないままだ。制服から学校を割り出すことも出来なくはないけど、本人に黙って調べるのは何となく気が引けて、検索にかけるのはやめた。
彼と話すきっかけになるものは、できるだけ残しておきたい。

「どこの学校に行ってるんですか?」

そう、聞けたらいいのに。
話しかけることができたらいいのに。
目を閉じて音楽を聴いてる人が相手なんて、ハードルが高すぎる。

そこへ、彼と同じ制服、同じ背格好でツンツン頭の男性が車両の接続扉を開けて、五両目
の後方へ行こうとしたところ、彼の真横で歩を止めた。
出し抜けに、男性は右手の人差し指で彼の右頬を突っついた。
カッと彼が両目を見開き、仰け反った。

あ、

瞬間、彼と目が合った。

私の心臓が、確かに跳ね上がった。


『胸が高鳴る』

3/19/2024, 6:36:48 AM

「『不条理』?」
新作の構想を練っていた、二年生の池永由良が顔をあげてしかめた。ある熟語の否定系なんて、今まで候補に挙がったことがあっただろうか。一年生の時に入部してから、動詞こそあまり無かったものの、名詞とかポジティブな熟語とか、字面も意味もシンプルな傾向にあったように記憶している。

そんな由良の反応など、とうに分かりきっていたというようなすまし顔で、同じ二年生の藤代登吾は続けた。
「そ、今度の学祭で配布する作品集のテーマにするんだと。さっちんから皆に言っといてってさ」
両手をヒラヒラさせながら、さも興味なさそうに言って、登吾は長机に座った。さっちんとは、当文芸部の顧問、佐知川輝明先生の隠れた渾名だ。

「登吾先輩、机は作品を生み出すための神聖な場所です。椅子に座ってください。」
眼鏡の縁を持ち上げ、冷たい水が川に流れるかのような響きで、一年生の浜里燈が登吾を嗜めた。

「ひゃ~、浜里サンは怖い怖い」
登吾は大げさに肩を竦めて傍にあったパイプ椅子を引き寄せた。

「そんな態度だから、浜里さんに嫌がられちゃうんですよ」
一年生の和映人が漫画本を両手で開いたまま、苦笑した。
「えぇ~、何それ。俺、そんな嫌われてんの?」
登吾が心外だという顔をする。

そこに燈がサッと左手を挙げ、
「登吾先輩から受けた被害、六月十一日文庫本コーラ染め事件、七月二十三日単行本生クリーム噴射事件、八月…」
日付毎に指折り、朗々と続けていく。

登吾がおでこに右手をあてて、天を仰いだ。
「誰がそんな痛ましい事件を…」

「こんな片手じゃ収まりきらない事件の数々ほど、不条理なものはありません。」
燈が憮然として言った。



『不条理』

3/17/2024, 2:47:20 PM

診察室を出て、一礼する。
扉が閉まる一瞬、
会釈を返した主治医の能面が焼き付く。

ふっと嘆息が漏れる。
だが、まだマシな方ではないか。

このクリニックにたどり着くまでは、
果たして相性だけの問題なのかと、
担当する医師が合わなさすぎて
己のくじ運の悪さを嘆かない日はなかった。

門前払いされないだけ
ぞんざいに扱われないだけ
まだマシなのだ。

待合室の椅子に座り、スマホに触れる。
カレンダーを開き、明日の予定に目を留めた。

●出社日

最後の、出社日だ。
デスク周りとロッカーの荷物をまとめ、掃除をする。それを3時間で終えなくてはならない。
時間がたっぷりあるように見えて、管理職との面談時間も込みであろうことを予想すると、ギリギリかもしれない。

持ち帰り用のエコバッグ、提出する書類や返却物を一通り頭に思い浮かべていると、
受付窓口上の液晶画面に新たな番号が通知音と共に点滅した。

このクリニックでは、患者は受付順に番号札をもらい、その番号が液晶画面に掲示されてはじめて、診察や検査を受けることができる仕組みになっている。顔見知りでない限り、周りに名前を知られることはない。
名も知らない老若男女が、通知音に一斉に反応して液晶画面を食い入るように見る姿は、役所での徒労感を思い起こさせた。

今回の診察では、意を決して、診断書を作成してもらうことにした。

眠れない日が続き、やっと眠れても悪夢に苛まされ、終いには叫び声を上げた。
不安や焦燥感が強くなり、肌を搔きむしって血が滲み、目立つ傷が増えた。

心配する家族の言葉を笑い飛ばし、周りも自分も騙し騙しで何とか凌いできたが、いよいよ生活が壊れ始めていた。

「これで何度目だ」

分かってる。
此れは、自分の声だ。
自分こそ、また繰り返すなんて思いもしなかった。

劣等感が呪いとなって、自分をがんじからめにしているのは分かる。
だが、現状を理解できることと、現状を打破できることは似て異なる。

少なくともいまの自分には、職を辞することが最善としか思えない。考えつかない。
それくらい、追い込まれてしまったのだ。

己の不甲斐なさに、先輩上司の前で散々泣いた。悔し涙だった。
それで何かが変わるわけはなかったが、自分が此処を去ることは必然だったのだと思えるようにはなった。

私は悲劇の主人公じゃない。
ここから、第二幕が始まるんだ。
悲劇にするのか、喜劇にするのか、それは自分次第だ。

新しい番号が通知音と共に点滅する。
私は立ち上がり、番号を見つめながら真っ直ぐに歩き出した。

同じ苦しみを繰り返し味わうのは、もう、懲り懲りだ。
あんな泣き方はするものか。




『泣かないよ』

3/16/2024, 1:38:39 PM

バイトが終わって
自宅に戻る道すがら
ずっと君のことを考えている

いま、何をしてるかな?
LINEしようかな?

でも、誰かと一緒だったら…

私って、邪魔者かな

迷惑って思われるかな

私の頭の中を

そんな思考がグルグル廻る

そう

私は臆病者なのだ



『怖がり』

3/15/2024, 2:30:47 PM

まるで要塞のような
威圧感と重厚感が滲み出る
建設間もないゴミ焼却場に向かう
坂道の途中に
ひっそりと
その公園はあった

標高が高い町の
そのさらに高台にある公園は
近場にゴミ焼却場があるという立地上
人気は少なかった

晴天の夜に見上げる空は
天然のプラネタリウム
という言葉を口にすることすら
あまりにも陳腐すぎて閉口してしまうほどの
360度無数の煌めきに溢れていた

まるで意図せずに
自身が宇宙空間に放り出されたような
錯覚に陥りそうになる

夜な夜なこの公園を訪れる人は
そんな星々の息吹に魅せられた人たちだ

自分だけの宇宙が其処にあると
知り得た人たちなのだ

『星が溢れる』

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