安らかな瞳
ありがとう。
最後にそう言い残して、君は死んだ。泣きながら、苦しみながら、安らかに。
僕が殺した。力いっぱい首を絞めた。泣きながら、苦しみながら、ただ必死に。
君はきっと、誰よりも生きることに
月夜
月が綺麗な夜だった。
「夏目漱石はなんであんな遠回しな告白を考えたんだろう。」と君。
「それが当時の浪漫だったんじゃないかな。」と僕。
君を家に送る、散歩という言い訳の遠回り。お互い、まだ家には帰りたくなかった。悪あがきというか最後の抵抗というか、ある意味、遠回しな告白だったかもしれない。
「相手が鈍感な子じゃなくてよかったね。」
「その時は、ストレートに伝えてたんじゃないかな。」
「そっか。」
それからしばらく沈黙が流れた。街灯の乏しい住宅街を、ただ赴くままに歩いた。そうして少しずつ、君の家へと近づいていく。暗く静かな街。足音だけがやけに大きく聞こえた。
「私は。」と、ふと君が立ち止まる。
「私はきっと鈍感だし、他の人より足りてない部分も多いし、焦ってるわけじゃないけど、待ったり我慢したりするのはあまり得意じゃない。」
雲の隙間から差した月明かりが、君だけを照らしていた。
「僕は……。」
——月が綺麗な夜だった。
たまには
列車に乗って
海に行こう。
君の思いつきで、僕らはこうして電車に揺られている。時刻は調べずに、来た電車に乗って行こう、と無計画な旅。折角の春休みだから、といまいち理由にならない理由に頼って、僕らは並んで揺られていた。
日が傾き始めた15時過ぎ。海水浴場に着いた。夏を忘れたように、冬の海は静かだった。
「思ってたより寒い!」
君は両手を広げて笑った。
長い髪が潮風に舞うと、君は急いで前髪を押さえて、そのまま砂浜を進んでいく。僕はその後をゆっくりと追いかける。夕日の乱反射する海と君の後ろ姿。口を開きかけた僕に、
「綺麗だね」と君は振り向いて笑った。
「綺麗だ」
帰りの電車はほとんど無口に、ただ車窓を流れる景色を見ていた。日が沈んだ真っ暗な景色を。
「夜だね」
「早いね」
帰りはやけに早く感じた。同じだけ時間が掛かっているはずなのに。このまま駅に着いてしまうのだろうか、と不明瞭な不安に襲われた。
「次はどこ行こうか」と僕。思い出して、折角の春休みだから、と理由を添えた。
「次は……」君は暫く考えたあとにふっと微笑んだ。
——理由のいらない旅がしたい。
現実逃避
誰にだって目を背けたくなるようなものはあるだろう。
私の場合、たまたまそれが「現実」だっただけで、不思議なことでも特別なことでもない。
梅雨明け。すごく暑い日が続いた。ニュースでは連日の猛暑だとか、最高気温更新だとか言っていた。そんな日が続いたとして、私たちは学校に通わなければいけないわけで、その日も扇風機の音がうるさい教室でじっと座っていた。
読書感想文を書こう、という話だったはずだ。図書室にある本でいいからとにかく提出しろ、と。夏休みのお決まりの宿題。読書感想文。なんでもいいから、と言われたのを逆手に、私は絵本を選んだ。実に捻くれていた。
「この辺じゃ、だれでも狂ってるんだ。俺も狂ってるし、あんたも狂ってる。」
「あたしが狂ってるなんて、どうしてわかるの?」
「狂ってるさ。でなけりゃ、ここまでこられるわけがない」
そう言ってチェシャ猫がにんまりと笑う。
こんなことになるなら素直に向き合うべきだった。酷暑も面倒くさい宿題も、今よりずっとマシだ。私はため息を一つ吐いて、またウサギを追いかける。