日記帳を持ち歩いていた。文庫本サイズの罫線も何も印刷されていない、白い日記帳。文を書くのもよし、絵を書くのもよし。日々思いのままに書き連ねていた。
当然、サマーキャンプにも持っていっていた。小学校の配布物の中に案内があり、両親を説得して参加した。
あのときの熱意は何だったのだろう。
初めてのサマーキャンプ。友達と示し合わせたわけでもなかったので、参加者に知ってる子はいなかった。他の子達は友達同士で参加していたようで、私は一人だった。
寂しかったわけでもない。すぐにグループに入ることもできた。学校のクラスにはいないような、明るくサバサバした子達のグループ。特に仲間はずれにされることもなく、みんなと楽しくキャンプしていた。
そんな日々のことも日記に書いていた。見せて、と言われて見せたこともあるし、グループのみんなにイラストを描いてもらったこともある。
そんな日記が、ある朝無いことに気がついた。
グループのみんなにも探してもらったし、引率のお姉さんにも訴えた。それでも見つからずに3日が経った。
その朝、朝食の時間にある男の子のグループが騒いでいた。そのグループの男の子は、私のグループの女の子たちと仲が悪いようだった。うるさいな、とちらりと見ると、男の子たちが代わる代わる何かを持っていた。
私の日記帳。
返して、と声を張り上げると、びっくりしたように私を見た。
お前のだったのかよ、てっきり……と、グループの他の子の名前を挙げていた。
返してもらった日記帳は、心なしか表紙が荒れているようだった。中のページも所々折れている。
ページをめくる。私の書いた文や絵。みんなに書いてもらったイラスト。
その後に、書いた覚えも見た覚えもないマンガが描かれていた。あのグループの男の子の悪口を書いたものだった。続くページには、別の筆跡で先ほど名前が挙げられた子の悪口が書かれていた。
ああ、グループのあの子が、私に黙ってこんなマンガを描いて、皆で笑ってたのか。私の日記帳なのに。
その後、私はそのグループから離れて、残りの2日間を過ごした。
「相席、いいですか」と尋ねながら、その男は座ってきた。私は少し目を上げて頷くと、そのまま本を読み進めた。
こうして向かい合わせになると、奇妙な緊張感が生まれる。
男は運ばれたコーヒーを啜りながら、辛うじて聞き取れる声で囁いた。
「ターゲットは情報通り、日課のランニングを始めている。コースもいつもと同じだ。その後は自宅に戻り、車で職場に向かう。チャンスは車に乗り込むまでだ。」「ガレージは」「外」「了解」
会話はそれだけ。私は本を少し読み進め、席を立った。男はゆっくりとコーヒーを啜っている。
ターゲットの自宅はカフェから5分ほどのところにある。カフェの前はランニングコースだ。
いた、あの男だ。派手なイエローのランニングウェアの男が私を追い抜いて走って行った。そっと後を追う。
家は分かっている。シャワーと着替えをする時間を見計らって家の前に着く。道路に面したガレージにライトブルーのスポーツカーが停まっていた。ちょうどその時、スーツ姿のターゲットが玄関から出てきた。運転席に近づき、乗り込もうとした男に声をかける。
「近藤尚臣さんですね。少しお話いいですか。あなた、出向先のTG社で顧客データを持ち出しましたね。」一息に畳み掛けると、男は驚愕した表情で固まった。「いえ、あなたを告発するつもりはないんですよ、そのデータを買い取らせていただこうかと。少し色をつけていただけると嬉しいんですが。」
キーを取り上げ、不安気な男を助手席に乗せ、私は車を走らせた。
「ど……どこへ……?」震えながら男が尋ねる。無理もない。
車は港へ向かい、寂れた倉庫へと向かっていった。
案外悪くないもんだな、とメジロは思った。食べるものも飲むものも確実に出てくるし、床も汚すとキレイにされるし。
特段飛ぶことに喜びもなかったんだよな、食べ物を探すためとかにせざるを得ないだけだったし。
窓際から空を眺める。葉の間の光も枝をそよがす風も、こんなにのんびりと味わうことだってできなかった。いつ自分や仲間を襲う敵がこないかと警戒していたし、雨宿りの場所の確保も大変だった。
空調の効いたリビングで、鳥かごの中のメジロは微睡んでいた。
そうだ、冬の寒い間だけは仲間と一緒だった。食べ物の位置や敵の存在を教え合い、なにより皆で固まると寒さをしのげた。
時には違う種類のやつらとも一緒だったな。お互いの鳴き声の意味を教え合ったものだった。
ガツンと揺れた衝撃で、メジロは目を覚ました。入っている鳥かごが床に落ち、入口が開いている。その向こうに大きな影がこちらを見つめていた。「ニャア……」
あの生き物は、外でも見たことがある。枝の下から熱い目で見つめ、地面に降りた仲間が捕まって連れ去られることもあった。
咄嗟に違う種類から教わった警戒音を口にした。
ヂヂヂヂヂ……
それがメジロの最期だった。
友情、なのだと信じていた。
しかし彼らと話しながらこちらを振り向いた嘲笑うような表情を見て、思い知った。
ああ、僕を利用しているだけだったのか。
彼らに向いた前面はなんとか保っている。だが背中側が破れ、僕の中身が砂のように流れ出しているかに思えていた。
そう言われて見ると、思い当たることは多かった。
二人の時はともかく、誰かが一緒のときには決してその輪に入らせなかったり、大事な用事について教えてくれなかったり、なにかあげるときには親切だけどそうでない時にはどことなく素っ気なかったり、僕の好きな物はいつまで経っても覚えてくれていなかったり。
そうだったのか、やはりそうだったのか。自分でも薄々気づいていて、それでも気づかないふりをしていたのだ。それをこんな形で見せつけて確信させるなんて。
僕は踵を返して戻っていった。
冬の終わり、風の中に春の気配がようやく現れた頃、亜紀は河原を歩いていた。冬の終わりと言っても真冬ほどの寒さではないという程度で、まだまだ冬物のコートは手放せなかった。
吹く風に襟を寄せて、足元に小さな草の芽を見つけながら、上流に向かって歩いていた。
顔を上げると、河原から上る階段に着いていた。この階段はそのまま丘の上まで伸び、頂上の小さな社まで続いていた。
亜紀のお気に入りの場所だった。
階段の手摺はまだ冷たいが、足元にはちらほら小さく芽吹いている。
あと1ヶ月で花が咲くかな、と考えているうちに鳥居に着いた。
手を合わせて振り向くと、川の向こうに住宅が並んでいた。小さな丘だがそれでも川岸のためか見晴らしはいい。
気付くと風の冷たさも忘れていた。
ふと風向きが変わり、ほんのりと甘い香りを運んできた。風は、背後の山から吹いてきた。
亜紀は階段から外れた川の反対に下り、藪をかきけながら山を登りだした。
山道の途中でポッカリと空いた広場があり、少年が立っていた。
「やあ、お客さんかな。ようこそ」町では見かけない顔だった。
小さな体は小学生、4年生か5年生か、細く吊った目の笑顔が張り付いていた。
「少し早いかなとは思ったのだけど」と言いながら、少年が山頂に向かって歩き出したので、亜紀も慌ててついて行った。
どれくらい歩いただろう。そもそもこんなに歩かなければ山頂につかないほど高い山ではなかったような、なんてぼんやり考えているうちに、山頂に着いた。
そこには少年とよく似た顔の人々が集まり、中心には金の屏風を背に羽織袴の男性が座っていた。親戚の集まりかもしれない。みな酒が入り料理も出され、華やいだ雰囲気だった。
年嵩の男性が近づいてきて、「お待ちしてました。さあさあ」と亜紀を衝立の向こうに案内した。そこではやはり似た顔の女性たちが待ち構えており、亜紀はあっという間に顔も髪も整えられ、重い着物を着せられた。白い生地に金糸の糸が刺繍された豪華な打ち掛けだった。
そのまま羽織袴の男性の横まで連れて行かれた。
「さあさあ、この盃に口を着けて。君のためにこんなものも用意したんだよ」と言われて見ると、一面に野の花が咲いていた。
「そんな、もう花咲いて……」そこまで呟いてはたと気づく。
そもそも、あの丘の背後にこんな山は今までなかった。