【心の裏】
「心って書いて、なんて読むと思う?」
当たり前じゃないか、「こころ」と読むに決まっているだろう。
「『こころ』じゃないの?」
「まあ、そうとも読むけど、別の読み方があるんだよ」
君は椅子から立ち上がり、教室の前にある黒板へと向かった。
白いチョークを手に取り、君は字を書き始めた。
カツッカツッという音が教室中に響き渡る。
僕は、それを教室の後ろから見る。
「心と書いて、『うら』と読むんだよ」
君は振り向いて言った。
「そうなんだ…」
「『心もなし(うらもなし)』って言う言葉があるんだけど、意味わかる?」
再び、君からの質問を考える。
心が無い、それすなわち……
「優しく無いってこと?」
「ちょっと違うねー。
『心もなし』っていうのはね、相手に気を遣ったり遠慮したりしないって意味なんだよ」
僕はそれを言われて、はっとした。
「……なんで、その話をしたんだよ」
すると君はふふっと笑って言った。
「私が失恋したからって、気なんか遣わないでね」
【温かい冬】
中村さんから話を聞いて以来、私の心は深く沈んでいた。
奥さん、病気で苦しみながら亡くなったんだ。
「サヨナラ」も言えなかったって。
この話を消化するには、とてつもない労力が要るみたいだ。
あれから、中村さんと会うことは無かった。
―――――――――――――――――――――
「今度の土曜日、3人で駅前のイルミネーション観に行こうよ」
と言って誘うと、あいりちゃんは少しだけ渋い顔をした。
「イルミ、かぁ……」
「だめ、かな?」
「いや、だめやないけど…行けるかなぁ…」
「もしかして、用事あったりする?」
かのんちゃんがお弁当を頬張りながら訊いた。
「うーん……、行けんかも。
ちょっと考えとくな。」
あいりちゃんにしては元気が無い。
そんな気がした。
気のせいだろうか。
「ま、まあ、イルミなんていつでも行けるし…」
少しだけ浮かない顔をして俯くあいりちゃんが見えた。
その途端、何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
私は家に帰ると、電気もエアコンもつけずにソファに倒れ込んだ。
「はあぁぁぁ」と特大の溜息をついてみるも、部屋中に虚しく響くだけだった。
お母さんは仕事だし、オトウサンは天の上だ。
こんな溜息、誰も聞いちゃいない。
私は額に手を当てて、暫く考え事をした。
中村さんの奥さんのこともあるけれど、やっぱり気になるのはあいりちゃんのこと。
いつも元気なあいりちゃんが、あんな顔をしたのがショックだった。
「イルミ、行きたくないのかな」
ぽつんと漏れたその声は、やはり虚しく響いた。
翌日。
私達はいつもと同じように会話して、笑っていた。
いつもと同じ。
あいりちゃんも、いつもと同じだった。
私達は、いつも2階のテラスみたいなところで昼ごはんを食べる。
今日も変わらず、テラスで昼ごはんを食べる。
「あ、そういえば、イルミどうかな?
都合悪かったりする?」
かのんちゃんが、今日はおにぎりを頬張りながら訊いた。
「あぁ、イルミ…な。」
あいりちゃんの顔から、さっきまで浮かべていた笑顔が消えた。
やっぱり、昨日のアレは気のせいではなかった。
「……、これ、今話すようなことじゃ無いと思うけど、ええかな?」
「うん」
私は頷いた。
隣を見ると、かのんちゃんも頷いていた。
「実はな、」
「…うん」
「ウチの親、再婚しとんの。
ウチが小学4年の冬の終わりに親が離婚して、中1の夏に再婚したんや。
再婚するまでの間はずっとおとんと2人暮らしやってんけど、今は新しいお母さんと3人で暮らしとる」
「そうなんだ…」
「ほんでな、離婚する前の最後のお出かけがイルミネーションやった。
途中までは楽しかったんやけどな、
おかんが少し神経質なところがあって、
些細なことで夫婦喧嘩が始まったんや。
それでどんどんエスカレートしていって、
周りの人も観とるし、
あまりに辛ぉて泣いてもた。 」
あいりちゃんはご飯を食べる手を止めて、俯いた。
その表情は、前髪に隠れてよく見えなかった。
今、どんな顔をしてるんだろう。
涙を堪えてるのかもしれない。
歯を食いしばって、自分が背負っているものの重みに耐えているのかもしれない。
「……今はな、素敵なお母さんと頼れるおとんがいて、毎日楽しい」
「……そっか」
そんなことしか言えなかった。
「……なんか、めっちゃスッキリしたわ!
やっぱり、イルミ行きたいわ」
あまりに唐突で、ビックリした。
かのんちゃんはキョトンとしている。
「いや、今まで、イルミ避けとったんよ。
っちゅうのも、イルミ見たらあの日の事を思い出して苦しなってもうて。
せやけど、友達と一緒なら楽しいはずやし。 やっぱり行きたいわ」
私はかのんちゃんと顔を見合わせて、ふふっと笑った。
きっと、かのんちゃんも心配していたんだと思う。
でも、私達が思っているよりもあいりちゃんは強い子だった。
なんだか、安心した。
「じゃ、土曜日の5時に駅前集合でどう?」
「うん、いいね!」
「楽しみやわぁ!」
こうして、土曜日の予定はすんなりと決まった。
寒いはずなのにポカポカする。
それくらい、私達の関係は温かくて優しいのだ。
【横並び】
2:1。
前に2人、後ろに1人。
決まって私は後ろ側だ。
3人で帰る道は、楽しそうに話す2人を眺めるばかりでつまらない。
もし私に、ほんのちょっとだけ勇気があったならば。
「あ、そのドラマ観てるよ!」とか言えて、
会話に混ざることができるのだろうけど。
私にはあと一歩、踏み出す勇気が足りない。
今日こそは、今日こそは。
私は鞄をぎゅっと握りしめた。
誰も気づかないくらい静かな深呼吸をして、
私は一歩踏み出した。
ガサッ
少し背の低い木にぶつかった。
葉っぱが邪魔すぎる。
前の2人は話に夢中で、私になんか目もくれない。
はぁ…。
私は溜息をついた。
やっぱり私は、2人にとって「友達」では無いのかもしれない。
この大きな溜息すら、2人は気づいていないから。
「仲間」がいれば、と考えた。
「仲間」というのは、ある目標に向かって一緒に頑張る人のことだ。
仲間がいれば、私は横並びになれるのに。
ただの友達じゃ、私は横に並ぶことを許されないのだ。
私は空を見上げた。
雨が降れば、こんな時間は直ぐに終わってくれるのだろうか。
【トラジェディ】
暑さが和らぎ始めた10月の始め。
私は帰り道にある人を見掛けた。
その人はベンチに座っていて、独りで海を眺めていた。
鼓動が高まり、頬が熱くなる。
2年ぶりだ、会いたかった。
私はゆっくりと近づき、その人に声を掛けた。
「あの……、私のこと、覚えてますか?」
その人は振り向いた。
「あなたは…」
「お久しぶりです、中村さん」
目の前にいるのは、私の町に2年前まであった楽器店の店主・中村さんだ。
私達はベンチに腰掛け、しばらく話をすることにした。
「いやぁ、実に2年ぶりですね。
元気にしていましたか?」
「はい!中村さんも、お元気でしたか?」
私はニコニコ笑顔で答えた。
「ええ。この2年間、色々ありましたけど、何だかんだ元気ですよ。」
私は中村さんが言った「色々」に深い意味があるのを分かっていた。
去年、奥さんを癌で亡くしたと噂で聞いた。
それを思い出して、少しだけ胸が重くなったような気がした。
「……私も、何だかんだ元気にやってます!」
私は笑顔を作った。
それから私達は、この2年間の話をした。
高校に進学したこと。
友達が出来たこと。
今年、東京に行ったこと(家出したことは隠あえて言わなかった)。
中村さんはうんうんと頷いて私の話を聞いてくれた。
前と変わらない、柔和な笑顔。
寡黙で落ち着いていて、とても優しいところは変わらないみたいだ。
「あ、そういえばこれって言いましたっけ?」
「はい?」
「私、実は去年に妻を亡くしたんです。」
海風が急に冷たく感じられた。
脳がどんどん冷えて固まっていく。
中村さんの背後には、動かない白い雲が見える。
「…えっと、」
「ステルス胃癌で、亡くなったんです」
中村さんは視線を海に移し、こう切り出した。
「少しだけ、妻の話をしてもいいですか?」
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2年半前から、妻がよく「食欲が無い」と言うようになったんです。
その頃は暑さが厳しい7月で、夏バテで食欲が失せてしまったのだろうと思っていたんです。
ですが、夏が終わっても一向に食欲は戻らず、冬には食事を戻すようになったんです。
ある日血を吐いてしまい、「これは只事では無い」と思って病院に行きました。
結果は、ステルス胃癌のステージ3でした。
それからは店を閉めて、妻の回復を優先するようになりました。
最初は手術も検討されていましたが、どうやら他の臓器に転移しているのが見つかって、手術はできないということで薬物療法を行なうことになりました。
最初の頃は、辛い入院生活でも笑顔を浮かべていたんです。
ですが、癌が骨にも転移して、次第に骨の痛みを訴えるようになりました。
日に日に笑顔が消えていくのを見るのは、本当に辛かったです。
ある日、先生から「今夜が山場かもしれません」と言われて、一晩中付き添いました。
夜中に「痛い、体が痛い」と呻けば、私は妻の体を擦ってあげました。
泣きながら擦りました。
もう、こんな姿は見たくないとも思いました。
そして翌日の朝、妻は亡くなりました。
苦しみながら亡くなりました。
サヨナラの言葉すら言えませんでした。
―――――――――――――――――――――
「ごめんなさい。
こんな話、外でするようなことでは無いですよね。」
そう言うと、中村さんは立ち上がった。
手には杖が握られていた。
「さて……、もうそろそろ行きますね。
それでは、お元気で。」
中村さんは杖をついて、地面と靴が擦れる音を立てて去っていった。
私はその背中を見送ることしかできなかった。
私は海を眺めながら、しばらく考え事をしていた。
中村さんは、もう楽器店は経営しないのだろうか。
今年の4月、閉店した楽器店が取り壊されているのを見た。
跡地にはコンビニができるらしい。
中村さんは「サヨナラの言葉すら言えなかった」と言っていた。
中村さんは、後悔しているだろうか。
しているだろうな。
こんな別れ方、望んでいなかっただろうな。
「来世でも会いましょう」なんて言ったりするドラマチックな別れではなく、
ただ苦しむことしかできないなんて。
こんな酷いことがあったなんて。
この苦しさは、今まで私が味わったものの中でもトップクラスに酷かった。
〈悲報〉
さっきまで書いてた小説のデータ、
吹っ飛びました(泣)
ということで新作は明日書こうと思います。
明日は、あの子がある人と再会します。
以下は過去作の再掲です。
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【鳥曇り(再掲)】
私は駅前に着くと、不意に空を見上げた。
灰色の重い雲が一面を覆い尽くしていた。
鳥曇り。
この前覚えた言葉が頭に浮かんだ。
春の季語らしいので、12月の空にはそぐわない表現だが、
どこか寂しくて褪せたイメージは鳥曇りという言葉で表現するのに十分に思えた。
私の町―田舎の港町は都市に行くには少し遠い場所にあるので、電車で30分以上もかかってしまった。
私の目的は、楽器屋に訪れることだ。
私の町にも、海沿いに古びた楽器屋はあるのだが、店主さん曰く
「実は妻が体調を崩しましてねぇ…、しばらくの間店を閉めようと思うんです。
早ければ春頃には再開できるんですけどね…」
と、いうことだそうだ。
ギターの弦の入手先が無くなって途方に暮れていた私に、お母さんは
「駅前にも楽器屋さんあると思うよ。
ショッピングモールの中にあったような…」
と教えてくれた。
そういうわけで、私は30分以上もかけてここに来たのだ。
ショッピングモールはここから3分のところにある。
道中、店主の奥さんのことを考えていた。
あのお店は夫婦で切り盛りしていると聞いた。
お客さんは少ないけど、とてもアットホームで、居心地の良さを感じる場だ。
店主は寡黙だけど、喋る時は喋る人だ。
楽器の知識が豊富で、私にもいろんなことを教えてくれた。
「ギターにはいろんな種類の指板があって、それぞれ特徴があるんだよ。
例えばメイプルは明るくてキレが良い。
ローズウッドはメイプルよりも暗く落ち着きがある。
その他にもいろんな種類があって、自分が演奏したい曲に合わせて変えると雰囲気が出て良いんだよ。」
店主の奥さんはお喋りで、いつも話しかけてくれる。
ピアノが弾けるらしく 、一回だけ聴かせてもらったことがある。
とても温かくて、元気があって、上手く言語化できないけど、「好きだ!」と思った。
それを話すと、ケラケラと笑って「その言葉を待ってたんだよ!嬉しいねぇ」と言ってくれた。
素敵な人だった。
大丈夫かな。
体調が悪いってことは、怪我とかじゃなくて病気かもしれないってこと?
もし深刻な病気だったら、嫌だな。
店主さんも、絶対落ち込んでるよね…
きっと、オトウサンが病気だった時も、オトウサンは絶対に苦しい思いをしていただろうし、お母さんだって辛かったはずだ。
私には誰の気持ちも全て知ることはできないけど、
でも、そんな思いを他の人に味わってほしくない。
指が刺さりそうになるくらい、拳を握りしめた。
ショッピングモール内の楽器屋は綺麗だった。
店内は明るいし、お客さんも多い。
ただ、そこには「商業」「ビジネス」という文字が見え透いていて、アットホームな空間とは言えなかった。
弦と数枚のピックを買って、外に出た。
本当はもっとお買い物したかったし、ゲームセンターも行きたかったけど、出費が惜しい。
外に出ると、冷たい風が頬を殴った。
最近、やけに寒い。
12月だからか、それとも?
鼻の上に、冷たさを感じた。
「あ、雪降ってきた―!」
誰かがそう言って、私は空を見上げた。
鳥曇りの空から、雪がちらちらと舞い降りてきた。
オトウサンは、こんな風景の中でも温かいものを信じて曲を作っていたのだろうか。
私は駅に向かって歩いた。
次は、クリスマスイルミ観たいな。