担当から頼まれたシャンパンタワー60万。
それは私が昼間の健康的な仕事と、夜に身体を売った仕事で稼いだ、人生で1番大きな買い物だった。
お財布は1万円。バッグは5000円。着ている服は、PARCOに入ってるアパレルショップで3年前に買ったやつ。
服についた目立たない所のシミが、私には鬱陶しかった。
シャンパンタワーを頼まれた時、即答出来なかった。
お金が腐るほどあるならやってあげたい。でも、一晩で泡(あぶく)のように消えてしまうお酒に、60万を払う勇気が出なかった。
「60万のでいいから」
担当のソウマくんはそう言った。
60万ので、いいから。
彼にとって、1万円札60枚の束は日常で見慣れた厚みなんだろう。私にとっては、昼間の仕事3ヶ月分。飲まず食わずホームレスをしてやっと貯まるかどうかの金額だ。
「来月のバースデーさ……頼むよ」
ソウマくんは、ソファに投げ出された私の手を握って言う。彼の乾いた指先が、私の手の甲を撫でる。
「みんなやってる」
「ちょっと我慢すればいいだけ」
「目を瞑っていれば終わる」
紹介先で言われ、歯を食いしばって心を殺して、何とか稼いだ60万を胸に抱いて迎えた、ソウマくんの誕生日。
ソウマくんは60万のシャンパンタワーコールを雑に終え、隣の席にいた派手な女の子が入れた300万のシャンパンタワーを前に、自己顕示欲満載のマイクパフォーマンスをした。
――俺さ。ホストで死ぬほど稼いだら、家庭を持ちたい。子供の行事とか行ってあげたいんだよね。嫁にも苦労させたくないし。
新宿の安いラブホテル。湿っぽいシーツの上で私の前髪を優しく撫でたソウマくんの言葉が蘇る。
60万では、ソウマくんの夢は叶えてあげられない。
惨めに残されたシャンパンタワーを呆然と見ながらそう思った。
ソウマくんへの愛があれば、なんでも出来る。
もっと節約して、夜の仕事を増やして。もっと心を切り売りすれば、ソウマくんに愛してもらえる。
そしてソウマくんと一緒に、広い庭付きの一戸建てで子供を育てるんだ。
ソウマくんは、もう私のテーブルには戻ってきてくれそうにない。ずうっと、300万の子の隣にいて、綺麗なネイルが施された白い手の甲を撫でて、耳元で何かを囁いている。
300万。まずはそこからだ。ソウマくんの心を買える値段。
騒がしい地下のホストクラブからふらふらと外に出ると、欲にまみれたネオンと嫌な臭いが漂う街が出迎える。
私は感情のスイッチをオフにして、その汚い街に沈んで行った。
※フィクションです。実在するお話ではありません。
ホストクラブの知識も大して無いので、齟齬があったらすみません。
後悔の対義語は
納得って、AIが言ってた
納得じゃなくて
妥協だろ
悔やみたくなくて
諦めたんだよ
大人になった私は、今日食べたいものを自分で決め、何時に寝るかも自分で決められる。
なのにいつの間にか、カロリーを気にして、翌日の仕事の心配をしながら夜更かしをする毎日だ。
満員電車に揺られ、お局に嫌味を言われ、ノルマが売上が営業力がと詰められる。
その度に私の周りの酸素が、1mlずつ減っていく。
いくら喘いでも苦しいばかり。
そんな生活がいつまで続けられるのか。自分でも分からなかった。
「今日で辞めます」
ポロッと口から出た言葉に、上司と同じくらい自分もビックリした。
ネチネチと、注意なのか愚痴なのか分からない小言を15分も聞かされ続け、今日締切の資料作成がまだ半分残っているのに定時まであと5分。
残業確定の中の無駄話にウンザリしていた時だった。
「え?」
「……え?」
まん丸の目をした上司に、私も同じ返事をした。
あれ、私。今辞めるって言った?
「え?ほんとに?」
上司がポカンと間抜けな顔をする。その顔を見てなんだか無性に腹が立った。
辞めるなんて言い出さないと思ったのか?定時ギリギリに、生産性の無い話を聞かされて。
そして明日には残業したことを怒られる。
しまいには、勤怠を切ってから仕事をするのが常識だなんて言い出す。
フツフツと沸いてきた怒りを抑え、一回深く息を吐き、「はい。辞めます」と無表情で伝える。
上司は慌てて取り繕うような言葉を並べ始めたが、私はそれを無視して私物を全部カバンに放り込み、社員証をデスクに叩きつけ、定時ピッタリに会社を出た。
まだ明るいうちに帰ることが出来るのは久しぶりだった。
初夏の風が爽やかに頬を撫でる。
強ばっていた身体が、その風に吹かれて飛んでいきそうなくらい軽く感じる。
そうだ。私は、何処にでも行けるし、何処で生きても許される。だって、私は大人なんだから。
背中を押す風に身を任せ、地下鉄のホームへ降りて行く。
この電車の終点は空港だ。
着の身着のまま、知らない土地へ美味しいものを食べに行こう。
風のように、自由に。
言葉にしないと分からないって言うけど、言葉にせずとも伝わる気持ちの方が高尚なものだなんて、イキがってたの。
触れる指先やキスの味。
お弁当に入れる卵焼きは甘めで、ご飯は硬め。
あなたに関わる全てに、愛してるを散りばめた。
明日も明後日も、この先ずっと。
目が覚めてから眠るまで、あなたと一緒に居られる。
そんな当たり前で当たり前じゃなかったことに、今気付くなんて。
心電図の波形が弱々しくなっていく病室では、医者と看護師が、黙って私と彼を見つめていた。
止めてよ。死を待たないで。
何で、どうして。
彼の唇はもう開かない。
私に何度も愛を伝えてくれた声も、聞こえない。
待って、置いていかないで。
最初で最期の愛してるを、こんな形で言わせないで。
彼の鼓動の波が凪ぐ。
私は、愛を泣き叫ぶ。
蛹の中で死んだモンシロチョウ。
春を迎えられなかった、可哀想な蝶。
暖かな季節を迎える頃に、綺麗な白いドレスを着て、菜の花に囲まれて世界一幸せな蝶になるはずだったのに。
海でのプロポーズも。
控えめなダイヤが1粒ついた婚約指輪も。
一緒に決めたカーテンの色も。
お揃いのお茶碗も。
全部、全部、蛹の中でぐちゃぐちゃになった。
あの人は、地味で何処にでもいるような私じゃなく。
美しくて華やかなアゲハ蝶へ移り気したの。
カラカラに乾いたモンシロチョウの蛹を踏み潰す。
クシャッと潰れた蛹の屑が、風に吹かれて散って行く。