【もしも過去へと行けるなら】
病室で、右手で妻の右手を握る。
とても、穏やかな顔をしてる。
「お母さん、すごく良い顔しとるね」
「心筋梗塞やって。持病も色々持ってるし…苦しかったやろうにね…」
「誰も間に合わなかったなぁ。」
3人の娘たちは、口々に言う。娘たちはそれぞれ、県外へと嫁に行き子どもをしっかり育て上げた。
孫も1番上の子でもう、35歳になるだろう。
今回は入院中の妻の危篤の電話が入ったのが平日の夕方ということもあり、私と娘たちだけが病室へと集まった。
娘たちはハンカチを片手に、妻の顔を覗き込んでいる。
私は、仕事が1番だった。平日も休日も関係なく、働き詰めだったが好きな仕事だったので苦は無かった。
妻は、ほとんどひとりで子育てをしてくれた。苦労を掛けたと思う。家族旅行もあまり行かなかった。
孫が産まれ、仕事を定年退職してからは好き勝手に過ごしていたように思う。
妻の作るご飯を食べ、妻が用意してくれる着替えや生活の動線を自由に使う。妻は文句も言わずに、私のそばで居てくれた。妻が時折入院するようになってから、自分で身の回りのことをするようになって、ようやく妻がどれだけ大変な思いで毎日過ごしていたのか想像するようになった。男は馬鹿な生きものだと思う。側にあるうちは、その当たり前さにあぐらをかいて、専業主婦として家に居る妻を何処か下に見ていたんだろう。こんなに馬鹿な男なのに、何故妻はずっと一緒に居てくれたんだろう。
当たり前に貰いすぎて、感謝なんて、した覚えがない。
妻が死んだというのに。思い出すのは就寝前に、妻が習慣のように作る梅昆布茶を飲むことだった。
特に話をするわけではない。
『梅昆布茶は、睡眠前に飲むのにとても身体に良いんやって。曾孫も増えてきて、もう名前が覚えられやんわ。でも、元気に生きてみんなの成長を見ていかんとね』
柔らかい、妻の声が聞こえた気がした。
自分自身のことよりも、誰かを優先する、とても優しい女だったのだ。
右手に力が入る。
冷たいそれは、もう握り返してはくれない。
もしも過去へと行ける、夢のような道具があるのなら、
私は妻に「ありがとう」と、「苦労をかけてすまない」と伝え、きっと嫌がられるほど抱きしめてやるだろう。
歳と共に涙は枯れてしまったのか、もう溢れることはないが、私は妻を愛していたと言う事実が、溢れんばかりに胸を熱くした。
娘たちが返事もくれない妻に声をかける中、ぽつりと私は呟いていた。
「おい、早く迎えに来てくれよ」
【またいつか】
駅のホーム。行き交う人々。
その場に、縫い付けられたように動けない私。
動けなくて立ち尽くしているのに、周りの人たちはとても上手に私を避けて前に進んでいく。
まるで私なんて最初から、居ないかのように。
「大丈夫ですか?」
透き通るような綺麗な声に、ハッとする。
私の存在に気づき、立ち止まる女の人。
止まった時間が動き出したみたいに、私の意識もはっきりとしていく。
「え、ええ…」
「もしかして、気分悪いんですか?顔色…」
「……少し…」
特に考えずに返事をしていた。
気分が悪いわけではないと思う。でも、なんだか居心地はとても悪くてとても強い不安感に飲まれていくようだった。
女の人は、私の手を取るとベンチの所まで連れて行ってくれた。私はその手を振り払うことはせずに素直に従う。
「誰かに押されたら、危ないから」
とても優しく笑い、ベンチへ私を座らせると隣に荷物を置いて自販機まで走っていく。
ホームを流れるままに、歩いていた人たちの波は少し落ち着いていた。戻ってきた女の人が手にしていたのは、麦茶と水。
「どっちが良いですか??」
「すみません…大丈夫…」
「私2つも要らないから、良かったらもらってください!」
「ありがとう…」
私は水を手に取る。女の人はキャップを開け、麦茶をゴクゴクと音を立てて飲んだ。私も真似して、キャップ開ける。ゆっくりとした動作で、水を口に運ぶと喉が渇いていたことに気づいた。そのまま、喉を潤すように水を体内へ送り込む。女の人は、私のその様子をじっと見ていた。
「ふふ、良かった。顔色…少し戻ってきたみたい。真っ青でしたよ。」
「ごめんなさい。ご迷惑かけてしまって…」
「勝手にやったことですから!私、こんな風にすぐ人に絡んでしまうから…よくお節介だと嫌がられるんです。でも今日は、それが役に立って良かった。」
女の人は、ニコリと笑う。
声も綺麗だと思ったけど、とても綺麗な笑顔だなと思った。女の人は鞄から、メモ帳を出して、サラサラっとメモ書きすると私に渡す。
「これ、チャットアプリの私のIDなんです。名前も偽名で始められるから、もし良かったら…話しませんか?」
「え?」
「ふふ、そんなに警戒しないでください!なんだか、悩んでるみたいだったから…。偽名だし、知らない人だから相談出来ることってあるじゃないですか。良かったら連絡ください。私、仕事辞めて転職活動中で…暇なんです」
「……」
「怪しんでます?」
「…少し…」
「ふふ、正直ですね。そろそろ私は行かないと。じゃあ、またいつか!」
「あ、水…ありがとうございました」
「はーい!」
手を振りながら、女の人はあっという間に去っていく。
少し前までの不安感は、少し和らいでいたように思う。
女の人の後ろ姿を、見えなくなるまで見ていた。