『愛があれば何でもできる?』
19年前、一人目の子どもを産んだ時
新生児特有のクタッとした
柔らかく小さな我が子の寝顔を見つめながら
考えていたことは
「がんばらないこと」
だった。
昨日までは顔も知らなかった我が子。
これから始まる子どもの人生を
成人するまでともに過ごし
サポートし続けるために息切れしないこと。
この思いは子育てしている時、
度々思い返していた。
「愛」があれば何でもできる。
正直、「愛」というものを実感できていないのだけど、
「愛」という大きなものは
その時々の状況によって、
いろんな言葉に変えることも
できるのだろうか?
もしそうならば、
母親としての子どもに向けた「責任」という言葉が
それにあてはまるのかもしれない。
今、子どもは親元を離れ
あと数か月で19歳になる。
『真夜中』
大人になって幾分の時が過ぎ、
体力に自信がなくなってきてから
夜更かしをすることはなくなった
それでもたまに
家族みんなで夏の夜空の天体観測に出かけたときや、
仲のよい友人たちとの飲み会の後に食べた
ファミレスのパフェの美味しさは
特別なきらめきを持って
記憶を彩ってくれている
遠い子どもの頃の
夜道を歩く心細さや、
精霊流しが終わったあとの
道々に散らかった爆竹
闇夜に切り取られた情景に
その頃の想いが重なる
これからずっと先、
年老いてから思い返すのは
子どもが幼かった頃に
毎年、家族と一緒に
大晦日に除夜の鐘をつきにいったこと
だろうか
真夜中は人の思いを
あらわにして
妖しく鮮烈で大切な記憶として
刻んでいく
『恋物語』
「恋物語」というワードを聞いて
まずぱっと思いついたのが、
40年前の原田知世主演映画
「時をかける少女」だった。
その2年ほど前の映画、
薬師丸ひろ子主演の
「セーラー服と機関銃」
も続いて思い出した。
後々まで知られる
この有名な二本の映画が
上映されたころは
まだ小学生で、
だいたいのあらすじは知ってはいるけれど、
いまだにきちんと観たことはない。
なので恋愛がテーマの映画なのかさえも
本当はよくわかっていない。
原田知世も
薬師丸ひろ子も
今でもキュートな容姿で
そしてベテランの大女優で
二人が出演するドラマは
その存在だけで
惹きこまれて好きだ。
自分の恋愛について、
特に語れる内容がないのだけど、
「恋物語」という言葉の雰囲気から
昭和的な懐かしい感じがしたので、
書いてみました。
『後悔』
私は少し前に思い立って
「しなかったら死ぬ時に後悔することリスト」
を書き出してみたことがある。
・もっと子どもたちに笑いかけてあげればよかった
・もっと映画を観ればよかった
・もっとたくさん人と語り合い、つながりを大切にすればよかった
・もっと生きることを楽しめばよかった
・もっと笑えばよかった
・家を心地よい空間に整えればよかった
・もっと自分の顔と身体を愛してあげればよかった
・もっと自分を信じればよかった
・自分には能力があると自信を持てばよかった
・どんどん美しくなると信じて自分を磨けばよかった
・スッキリしたふくらはぎになると信じて努力すればよかった
・毎日、居心地の良い素敵な洋服と下着を身につけて過ごせば良かった
・もっと子どもを抱きしめ温かく励ましてあげればよかった
・大切な家族ともっと話し合えば良かった
・もっと自分の考えや思いをきちんと人に伝えればよかった
数か月経った今、
リストについて
努力をし始めていることがある。
一方で切望しながら、
どう動いていいのかわからないものもある。
けれどいつか行動のスイッチが
入るように、
上記のリストをスマホのメモアプリに入れて
毎日見返している。
自分の人生の幕引きのときに
充分に生き切ったと思えるように・・・
『子供のままで。』
保育の仕事で子どもたちを預かっていると、
「ピンポン♪」とインターフォンが鳴るたびに
幼い子どもたちが、
「ママ!」と目を輝かせて
玄関の方を指差し、
反応することがあります。
ママやパパがお迎えに来てくれた!
と思ってるんですね。
そんな幼い子どもたちの
まっすぐな親への絶対的信頼感が
ほほえましくもあり、
眩しくも感じられます。
親との関係が
人間関係の土台になることを思えば、
子どもが親から愛情を与えられると
信じてやまない表情に
見ているこちらも幸せな気持ちになりますし、
ほっと安堵する思いになります。
私自身は子どもの時
親に対しても誰に対しても
うまく笑えなかったので、
子供の頃の笑顔のままで
笑えることがどんなに
ステキで幸せなことかと
子どもたちを見ていてふと考えるのです。
『失われた時間』
コロナ禍が始まろうとする数週間前に夫が倒れた。
半身麻痺の障害が残る症状で
入院が半年ほど続き、
その間、私は家のことと子どものこと、
そして仕事を済ませてから
毎日、病院へ面会へ行った。
急な状況の変化とこれからの生活のことで
心身が疲弊した。
その年は健康診断の数値が悪く、
低音難聴と診断された。
あれから4年。
とにかく無事に一日が
終わるよう必死だった。
夫のことで
たくさんの手間と時間がとられ、
自分を失くすような感覚に
陥ることもあった。
正直、この生活から離れたいと
何度も思った。
そうやって自分を失くす感覚で過ごしたその頃は
苦しいだけのムダな時間でしかなかった。
だけど、もし夫の病気がなければ
私はずっと平穏と思いながら
空回りしつづける
何も掴めないような生活を
過ごしていたことだろう。
今だって大変なことはたくさんある。
でも、それ以前の暮らしより
今のほうが確かに自分の人生を
進んでいっていると感じられる。
失われた時間
取り戻せない時間
本当はどの頃のことを
意味するのだろう。
『風に身をまかせ』
山の麓のダムの近くに
ベンチがいくつかあるだけの
原っぱの広場がある
休日の朝
赤いタータンチェック柄の
レジャーシートを持って
広場に行く
誰もいない原っぱで
レジャーシートを広げ
一日が始まろうとする
空の下でゆっくりと
身体を動かし呼吸をする
大空から風が吹き抜けてくる
その風を肌に感じながら
自分の心身が大きく
開き放たれていく
この空と風が吹き抜ける中で
身をまかせ
私が在ること知る
特別な時間
『愛を叫ぶ。』
「愛を叫ぶ」といえば
小説や映画で大ヒットした
「世界の中心で愛を叫ぶ」ですが、
この映画はもう20年前に
公開されたものなんですね。
当時話題になったので
映画館に観に行ったのですが、
周りは私よりずっと若い子が多くて
なんだか恥ずかしかった記憶があります。
数年前に知り合った方のお子さんの名前が
主人公「サク」と同じたっだたので
「もしかして『セカチュウ』からですか?」
とあえて略語で尋ねてみました。
すると、やはり『セカチュウ』の朔太郎から
名前を付けたとのこと。
『セカチュウ』の影響力、
ずっと続いているんだなぁと
その時感慨深く思ったものです。
私自身はこれまでに
「愛を叫ぶ」ほどの経験はないのですが、
もし今後それほどの
激情にかられるような思いがあれば
きっと紆余曲折ありながらも
腐れ縁で続いている夫と
別れた時なのではないか……と思います。
そう思えるような別れでありたいな、
いつかの未来を想い描き願っています。
『モンシロチョウ』
保育の仕事で
幼い子どもたちと散歩している時に
公園でモンシロチョウが
ヒラヒラと飛んでいるのを
見かける
子どもたちが
「あ、チョウチョだ」
と小さな手で指差し、追いかけていく
私も幼い頃に
チョウチョを見つけて追いかけていた
子どもたちの
そんな無邪気な行動に
自分の小さかった頃を思い出し
時間の経過の早さに感慨にふけります