#06 いつまでも捨てられないもの
3月、厳しい冬の寒さも和らぎ
陽の光も暖かくなってくるこの時期。
僕は新生活を始めるための準備をしていた。
都内の大学に受かって念願の一人暮らしが始まる
ワクワクとドキドキで今にも張り裂けそうだったが
荷造りを楽しんでいることに違いは無い。
そんなとき、あるものを見つけた
「くまちゃんだ」
幼稚園に入る前、人見知りで寂しがり屋の僕に
おばあちゃんがくれたお友達。
こんなところにあったんだ。
と思いながら、大切に手に取った。
埃まみれで色素もだいぶ落ちてきていたくまちゃん
捨てようかとも思ったけど、これだけは捨てられなかった。
だって、おばあちゃんが作ってくれているのを
当時の僕は知っていたから。
久しぶりの手芸で手に怪我をしながらも
僕のために作ってくれてたから。
寂しい時、楽しい時、お母さんに叱られたとき。
どこに行くにも
このくまちゃんは僕に味方してくれた。
捨てられるはずもなく、
洗濯して新居に連れていくことにした。
この選択をしたことに僕はふとこう思った。
寂しがり屋であること、おばあちゃんが大好きだということ、そしてこれらの思い出という宝物はいつまでも捨てられないものなんだ。
しぐれ
#05 誇らしさ
ある時、上司が自慢げに話しだした。
「私は昔、○○ってお店の料理長を任されていたんだよ」
そうなんだ。としか思わない。
初めて聞いた時は驚いたりもしたけど
もうこの話を何回も聞いている。
あの日の栄光を語っていたって
何かが変わる訳でもないのに
その時はさぞ周りからも慕われていたんだろう。
しかし、今はどうだ。
手際も悪く、終いにはお客様に対して文句まで言い出す。
腕が確かなのは相違ない。
でも、過去のことを誇りに思っていたってただの自慢にしか聞こえてこないのは何故だ。
ある時、自分の教育担当の先輩の噂を耳にした。
その先輩は数々の賞を受賞している他、
三ツ星を取った事のある実力者であったという。
でも、その先輩からはそのような話を
一切聞いたことがなかった。
その時から思った。
「本当にすごい人は自分で誇りに思っていても
周りに言いふらすようなことはしないんだ」と。
自分で自分を認められる人ほど
自分を高めることができるのだ。
そんな先輩に教えていただけるのは
とても誇らしいことだと気付かされた。
しぐれ
#04 夜の海
静かな波が心地よく耳を通り抜ける。
暗がりの中で月光が波とともに揺れる。
潮風が全身を包み込む中
ゆっくりと浜辺を歩いていた。
仕事に追われる日々の中で
近頃は感情が失いつつあった
しかしある時、古い友人に連れられて
この場所に来たことをきっかけに
僕は「生きている」事を実感できた。
この場所に来ると
砂浜に描いた絵のような頭の中を
波で洗い流してくれる。
頭の中がリセットされるみたいだった。
だから僕はこの場所が好きだ。
いつまでも変わらずにいておくれ。
しぐれ
#03自転車に乗って
「ただいま」
学校が終わって家に帰ってきた。
来年から就職活動が始まる。
また先生と進路について面談をした。
別にやりたいことも見つからない、
ただただ平和に学生生活を送れればそれで良かった。
毎日自転車で家と学校とを往復しているだけの日々。
こうした日々の中でふと思うことがある。
「子供の頃に思い描いた大人になれるのだろうか」
ふと感傷に浸りたくなり、
おもむろに押し入れのアルバムを探し始めた。
ペラペラと思い出を振り返っていると
1枚の写真が目に止まった。
「自転車だ」
3歳の時にお父さんにねだって誕生日に買ってもらった青くて雷みたいなカッコイイ自転車。
何故か帽子をかぶって敬礼をしている自分がいる。
思い出した。
小さい頃に迷子になった事があって、その時白バイに乗った警察官が助けてくれたんだ。
それで警察官に憧れて……
その時僕の心の奥底で止まっていた何かが
走り始めた。
しぐれ
#02 心の健康
あの時どうすれば良かったのかな。
そう思いながらいつものあぜ道を
自転車に乗ってゆっくりと帰っていた。
肌を焼くような日差しも落ち着いて、青い空が茜色に染っていくヒグラシの鳴く時間。
友達と道中で別れ、
1人になるといつもこんな事を考えてしまう。
自分の好きなものを隠して、友達の話に合わせていた毎日。
本音を隠して演じ切った今日1日。
「やりきったぁ〜」
そうやってまた自分に言い聞かせる。
なんだろう。この気持ち。
胸の奥に何かが引っかかっていた。
なんとも言い難いこのコトバ。
「……楽しくない」
そうだ。楽しくないんだ。
毎日、自分を守るために「私」という誰かを演じて
本当に話したいこと、やりたい事がわからなかった。
だから自分を見失っていたのかな。
誰かを演じるのはもうやめよう。
自分の心に従って自分らしく生きていこう。
しぐれ