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3/1/2024, 11:38:56 AM

 空が高い秋だった。仕事が急に飛んだので、近所の商店街をぶらぶらしていると、クリーニング屋の隣の物件が開店準備をしていた。ええと、ここはついこないだカフェが潰れて、その前は……たしか古本屋だったんじゃなかったっけ。なんとなしに中を覗いてみると薄暗い店の奥から男性が出てきた。年の頃は30前後、口の周りにひげを生やしていてジョンレノンみたいな丸メガネをかけている。ほほう、サブカル系の顔つき、これはもしや?私は気軽にクラフトビールが飲める立ち飲み屋であれと思いながら声をかけた。「こんにちは。なんのお店ができるんですか?」

 すると男性は「あぁ、バク屋です」と言った。バク屋?なんのことかわからず私がキョトンとしていると「バクですよ、あの夢を食べる」今の一言でさらに私がフリーズしたとみると、男性は店の奥に下がっていった。「夢を食べる、商売?」私は自分がパラレルワールドにでも入ってしまったのかと思ってただただ呆然としていた。すると、奥から「フガー、フガー」という獣の声が聞こえてきた。何事かと身構えていると、体長1メートルはあろうかという本物のバクを連れてきた。「この子です、名前はゲンガー」

 私は仰天し、思わず一足飛び退いてしまった。「大丈夫ですよ。人には慣れてますから」そう言うが、こんな古くからの商店街にバクがいるという現実をまだ私は受け止められていない。というかバクを見たのは小学生のときに遠足で上野動物園に行って以来で、この動物が本当にバクなのかもすら分からない。こんなに鼻が長かったっけ?「この子を」「ゲンガーです」「あっ、すみません。ゲンガーさんを……売るんですか?」「えっ、違いますよ、ゲンガーは売り物ではありません。ゲンガーが人の夢を食べるんです。それで僕がお金をもらう」男性は少しあきれたように言った。私は何を言われているのかわからず、ゲンガーがリズミカルに呼吸する鼻先をじっと見つめることしかできなかった。

 「じゃあ、開店サービスってことでひとつやりましょうか?」男性はゲンガーと目を合わせてから私を店の前に置いてある木の丸椅子にいざなった。私はなんのことだか分からずも、もうどうにでもなれとその椅子に座った。「目を閉じてください、そしてあなたの人生の重りになっている夢や欲望を強く想像してください。なんでも構いませんよ。自分でももう叶わないのに気づいている夢とか」唐突に男性にそんなことを言われ、私は急に言われても思いつかないよと戸惑った。

 しかし、ひとつの欲望のボールがわたしの頭の中に投げ込まれた。私は学生のときから作家になりたかったんだ。でも途中まで書いては挫折続きで、半年に1回ある芥川賞と直木賞の発表報道が妬ましくてたまらなかった。もしこの「作家になりたい」という欲望が消えたら、今の仕事にもっと集中できるようになれるかもしれない。私はぐっと頭に力を込め、自分が新人賞に選ばれて受賞スピーチをしている場面を思い浮かべた。金屏風の前でシックなドレスを着て謝辞を述べている私。自分の前にはたくさんのカメラや報道陣がいて、焚かれるフラッシュに目がチカチカする。それで……と想像していると急に自分の後ろで「ゲフッ」という声がした。まるでゲップのような音だった。

 「はい、お疲れ様でしたー。いかがでしたか?これほんとは1回4000円で考えてるんですよ」男性が私に声をかけてきた。いかがでしたかって言われても、正直まだなにも分からない。「また夢を思い出したら、来てくださいね」私はとりあえず礼を言ってその場を立ち去った。今のはなんだったんだろうと思いつつ晴れた商店街をそぞろ歩く。でも妙に頭の中がすっきりとしている。赤とんぼが1匹、私の目の前をすーっと通り過ぎていった。私は思わず目で追ったが、すぐ空高くまで飛んで行ってしまい見失った。ふと、仕事の新しい企画案が頭に降りてきた。スマホにメモをしようとポケットを探るが、どうやら家においてきたらしい。こうしちゃいられない。すぐ帰って忘れる前に紙に書かなきゃ、と私は軽やかな足取りで家路についた。

2/29/2024, 11:15:43 AM

 親族に不幸があって急遽大阪に帰ることになり、のぞみに飛び乗った。東京駅は帰宅ラッシュで、人混みのなかホームに駆け上がるとちょうど発車のチャイムが鳴っていた。「ギリギリセーフ」自由席の車内に駆け込むと奇跡的に入って左側の2席がさらで空いていた。隣の席に荷物を置いて席に座るとどっと疲れが出て、2,3度深呼吸をしてお茶を飲んでやっと息が整った。のぞみは東京の町並みの間をすり抜けるようにして進んでゆく。夕陽もビルの壁や窓に反射して、街ゆく人に「今日もおわりだよ、おつかれさま」と暖かいねぎらいをかけているようだ。新横浜を過ぎてしばらく経つとすっかり日も暮れてしまった。夕飯の弁当も食べ終わってしまって、ここから新大阪までなにもすることがない。
 ふと夕闇に染まった車窓を眺めていると、今回亡くなった豊中のおばちゃんの思い出が心に去来した。お年玉をようさんくれたこと。伊丹空港に一緒に飛行機を見に行ったこと。甲子園に行ったら私が日射病で倒れててんやわんやになったこと。私をかわいがってくれたおばちゃんの笑顔が脳裏によみがえると、涙がほろりほろりとあふれてきた。窓の外には家々の灯りがまるで夜空の星くずのように散りばめられ、どれも滲んでいた。黒い袖で涙を拭い、お茶を飲むとすこし平静を取り戻せたが、私はほかの乗客に涙を隠すようにそれでもなお窓の外を見ていた。
 「みーんな泣いたりしてるんやろな」私はぽろりとつぶやいた。この闇夜に小さく光る家の灯りのひとつひとつに、それぞれの家庭があって人がいて、その人たちが泣いたり笑ったり恋をしたりドラマがあるんだと私は改めて思った。地球から見ればあまりにちっぽけだけど、何百光年も飛んで近づいてみればとてつもなく大きい。星と同じだ、と私は感じた。今夜はお通夜だ。私も煌々と光る星のひとつになる手伝いをしなければならない。そのためには今はひたすら眠ることだと私は座席のリクライニングを倒して目を閉じた。

2/29/2024, 9:49:35 AM

 人は現在地から100キロ以上移動すると心が安らかになるらしい。いわゆる転地療養だ。だから私は早速仕事部屋から地図とコンパスを持ってきた。私の家から100キロ地点にぐるりと円を描くためだ。「ここから外側に引っ越そう、そうすれば私の病も寛解するかもしれない」そう言って私はコンパスの針を強く「東京」に刺した。ふと、涙がつうと頬を濡らした。もう一度針をぶっ刺した。ぶっ刺してぶっ刺してぶっ刺した。おのれ私から心を奪った町……二度と戻って来ない旅に、私は出る。