空が高い秋だった。仕事が急に飛んだので、近所の商店街をぶらぶらしていると、クリーニング屋の隣の物件が開店準備をしていた。ええと、ここはついこないだカフェが潰れて、その前は……たしか古本屋だったんじゃなかったっけ。なんとなしに中を覗いてみると薄暗い店の奥から男性が出てきた。年の頃は30前後、口の周りにひげを生やしていてジョンレノンみたいな丸メガネをかけている。ほほう、サブカル系の顔つき、これはもしや?私は気軽にクラフトビールが飲める立ち飲み屋であれと思いながら声をかけた。「こんにちは。なんのお店ができるんですか?」
すると男性は「あぁ、バク屋です」と言った。バク屋?なんのことかわからず私がキョトンとしていると「バクですよ、あの夢を食べる」今の一言でさらに私がフリーズしたとみると、男性は店の奥に下がっていった。「夢を食べる、商売?」私は自分がパラレルワールドにでも入ってしまったのかと思ってただただ呆然としていた。すると、奥から「フガー、フガー」という獣の声が聞こえてきた。何事かと身構えていると、体長1メートルはあろうかという本物のバクを連れてきた。「この子です、名前はゲンガー」
私は仰天し、思わず一足飛び退いてしまった。「大丈夫ですよ。人には慣れてますから」そう言うが、こんな古くからの商店街にバクがいるという現実をまだ私は受け止められていない。というかバクを見たのは小学生のときに遠足で上野動物園に行って以来で、この動物が本当にバクなのかもすら分からない。こんなに鼻が長かったっけ?「この子を」「ゲンガーです」「あっ、すみません。ゲンガーさんを……売るんですか?」「えっ、違いますよ、ゲンガーは売り物ではありません。ゲンガーが人の夢を食べるんです。それで僕がお金をもらう」男性は少しあきれたように言った。私は何を言われているのかわからず、ゲンガーがリズミカルに呼吸する鼻先をじっと見つめることしかできなかった。
「じゃあ、開店サービスってことでひとつやりましょうか?」男性はゲンガーと目を合わせてから私を店の前に置いてある木の丸椅子にいざなった。私はなんのことだか分からずも、もうどうにでもなれとその椅子に座った。「目を閉じてください、そしてあなたの人生の重りになっている夢や欲望を強く想像してください。なんでも構いませんよ。自分でももう叶わないのに気づいている夢とか」唐突に男性にそんなことを言われ、私は急に言われても思いつかないよと戸惑った。
しかし、ひとつの欲望のボールがわたしの頭の中に投げ込まれた。私は学生のときから作家になりたかったんだ。でも途中まで書いては挫折続きで、半年に1回ある芥川賞と直木賞の発表報道が妬ましくてたまらなかった。もしこの「作家になりたい」という欲望が消えたら、今の仕事にもっと集中できるようになれるかもしれない。私はぐっと頭に力を込め、自分が新人賞に選ばれて受賞スピーチをしている場面を思い浮かべた。金屏風の前でシックなドレスを着て謝辞を述べている私。自分の前にはたくさんのカメラや報道陣がいて、焚かれるフラッシュに目がチカチカする。それで……と想像していると急に自分の後ろで「ゲフッ」という声がした。まるでゲップのような音だった。
「はい、お疲れ様でしたー。いかがでしたか?これほんとは1回4000円で考えてるんですよ」男性が私に声をかけてきた。いかがでしたかって言われても、正直まだなにも分からない。「また夢を思い出したら、来てくださいね」私はとりあえず礼を言ってその場を立ち去った。今のはなんだったんだろうと思いつつ晴れた商店街をそぞろ歩く。でも妙に頭の中がすっきりとしている。赤とんぼが1匹、私の目の前をすーっと通り過ぎていった。私は思わず目で追ったが、すぐ空高くまで飛んで行ってしまい見失った。ふと、仕事の新しい企画案が頭に降りてきた。スマホにメモをしようとポケットを探るが、どうやら家においてきたらしい。こうしちゃいられない。すぐ帰って忘れる前に紙に書かなきゃ、と私は軽やかな足取りで家路についた。
3/1/2024, 11:38:56 AM