〈言葉にできない〉
喧嘩の翌朝、目が覚めたとき、隣は空だった。
昨夜のことを思い返す。きっかけは些細なことだった。夕飯の話が、将来の話になり、将来の話がいつの間にか言い争いになっていた。
桜子が「あなたは何も考えてない」と言ったとき、俺は「そんなことない」と言い返したが、具体的に何かを言えたわけじゃない。
気づいたら彼女はバッグに荷物を詰めていて、俺は黙って見ていた。玄関のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
数日で戻ってくるだろう、と思っていた。五年も一緒にいるんだから、お互いそれくらいはわかってる。
そう自分に言い聞かせて、普通に仕事へ行き、普通に飯を食い、普通に眠った。
──けれど四日が経ち、五日が経った。
LINEは既読にならない。電話は出ない。
焦りが忍び込んできたのは六日目の夜だった。
桜子のいない部屋はあまりにも静かすぎた。
桜子がいるときにしていた音──台所で鍋の蓋がぶつかる音、冷蔵庫が開く音、鼻歌の断片。
それが今は何もない。
意を決して、桜子の実家に電話をする。出たのは父親だった。
「君ね、娘をどういうふうに思ってるんだ」
低い声で、静かに怒っていた。怒鳴られるよりも、こちらのほうがこたえた。
「本当に結婚するつもりがあるのか。もう五年だぞ」
返す言葉がなかった。
ないわけじゃない。桜子のことを大事に思っている、結婚も考えている、ちゃんと向き合いたい。そういう言葉はいくつも浮かんだ。
でも喉のところで詰まって、うまく出てこない。言葉にする前に、自分でも薄っぺらく感じてしまう。
「……すみません」
それだけ言って、電話を切った。
その直後、桜子の母親からLINEが届いた。
《少し頭を冷やしてるって。無事だから心配しないで》
スクリーンショットが一枚添付されていた。
桜子のアカウントから送られたらしい短い文と、写真。曇り空の下、砂浜が続いている。消波ブロックが並んでいて、その向こうに灰色の海。
見た瞬間、どこかわかった。
一緒に暮らし始める前の秋、初めて二人で遠出した海岸だ。
電車を乗り継いで二時間以上かけて行った、こぢんまりとした浜辺。観光地でも何でもなく、地元の人間が散歩するような場所で、なぜそこにしたのかは覚えていないけれど、桜子が「また来たい」と言っていたのは覚えている。
俺は「いつでも来ようよ」と答えた。それきり、行かなかった。
気づいたら上着を摑んで、部屋を出ていた。
電車の中で、窓の外を眺めながら、いろんなことを思い出した。
つきあいたての頃、待ち合わせに遅れた桜子が駆け込んできて、「ごめん、走ってきた」と言いながら笑っていたこと。
俺が熱を出したとき、仕事帰りに来てくれて、何も言わずに看病してくれたこと。
誕生日に渡したプレゼントが気に入らなかったのか微妙な顔をしたくせに、半年後にはちゃんと使っていたこと。
どれも大したことのない話だ。語るほどのエピソードでもない。
でも、それが全部、桜子だった。
俺の日常のあちこちに、ごく自然に、彼女がいた。それがいつの間にか当たり前になって、当たり前のものは見えなくなる。
「何も考えてない」と言われたとき、俺は反射的に否定した。
でも桜子が恐れていたのは、たぶん、俺にとって自分が空気みたいになってしまうことだったんじゃないか。
海沿いの道を歩きながら、波の音が近づいてくるのを感じた。
かけがえない、という言葉がある。使い古された言葉だと思っていた。でもそれ以外に、今の俺にはうまく言い表せない。桜子と過ごしてきた時間が、桜子の声が、桜子のいる部屋の空気が、どれだけ俺の中に深く根を張っていたか。言葉にしようとすると、何かがこぼれ落ちていく気がする。
でも、確かにある。
それだけは、わかる。
砂が靴の中に入りながら、俺は海岸を歩き続けた。
遠くに、佇む人が見える。見覚えのあるシルエットが、ゆっくりとこちらを振り返る。
俺は走り出していた。
〈春爛漫〉
桜の季節は、いつもこんな具合にすれ違う。
今年こそ花見に行こうと思っていた。職場の同僚に誘われたのは三月の終わりで、お弁当を持って公園へ、という話だったのに。
当日の朝になって母から電話がかかってきた。父が転んで、大事ではないけれど念のため病院に付き添ってほしいと。
もちろん断れるはずもなく、同僚には申し訳ないと詫びのメッセージを送り、私は実家へ向かった。
父の打ち身はたいしたことなく、処置が終わって帰宅したのは夕方だった。スマートフォンに届いた同僚の写真を見ると、満開の桜の下、みんな嬉しそうに笑っている。空は信じられないくらい青かった。
翌週末には雨が続き、桜はあっという間に散った。
「佐和子さん、ちょっと」
縁側から、義母のふみさんの声がした。昼過ぎのこと、私は台所で夕飯の段取りを考えながら、特に何をするでもなくぼんやりしていた。
「どうしたんですか」
縁側へ出ると、ふみさんは庭を向いたまま言った。
「今日はいい日和だから」
促されるまま庭に目をやって、私は少し驚いた。いつも通り素通りしていた庭が、今日はなんだか違って見える。物置の脇に立つ木に、薄桃色の花が房になって垂れ下がっている。
「あれは何ですか」
「ミツバツツジ。もうすぐ終わりかけだけど、今年はよく咲いたわ」
言われてみれば、枝の先がほとんど花で埋まっている。葉が出るより先に咲くのか、花だけが鮮やかに、空に向かって広がっていた。その手前には、白い小さな花を無数につけた木がある。
「コデマリはまだ盛りね」
丸くまとまった花の塊が、枝の重さでゆるやかにしなっている。その奥、石畳の突き当たりには、黄緑色の葉を芽吹かせたばかりの木が一本。
「あれはまだ花が咲いてないですね」
「ジューンベリー。花はもう終わったの。
実がなるのは梅雨のころよ。赤くて、小さくて、かわいらしいの」
ふみさんは縁側の端に腰を下ろした。私もその隣に座る。
「全部、お義父さんが植えたんですか」
「そう。あの人、庭いじりが好きでねえ。
私はてんで興味がなくて、水やりくらいはしたけれど、あとは全部任せきりだったの」
ふみさんは膝の上で手を組んで、庭を見た。
「亡くなってから、はじめて名前を調べたのよ。
五十年近く一緒に暮らして、何が植えてあるかも知らなかった。お恥ずかしい話でしょう」
私は何と言えばいいかわからなくて、黙ってコデマリを見た。風が吹くと、白い花の房がいっせいに揺れる。
「……花見、行けなかったんですってね」
「ふみさん、聞いてたんですか」
「一雄から。かわいそうだって言ってたわよ」
私は苦笑した。夫もよけいなことを言う。
「まあ、毎年のことですから」
「毎年?」
「桜の時期って、なぜかうまくいかないんです。
雨が降るか、仕事が入るか、今年みたいに実家のことが起きるか。結婚して以来、ちゃんと見られた試しがなくて」
「まあ」
ふみさんは静かに笑った。責めるでも、慰めるでもない、穏やかな笑いだった。
「でもねえ、佐和子さん。桜って、みんなが一斉に騒いで、散ったらそれでおしまいでしょう。
この子たちは誰も見てなくたって、毎年ちゃんと咲くの。あの人が逝ってもう七年になるけれど、一度も休まずに」
私は庭をもう一度、ゆっくりと見渡した。
午後の光が石畳を白く照らしている。ミツバツツジの薄桃色、コデマリの白、ジューンベリーの柔らかな黄緑。派手ではないけれど、それぞれがそれぞれの時期に、静かに盛りを迎えている。
「お義父さんは、順番を考えて植えたんでしょうね」
口に出してから、少し気恥ずかしくなった。当たり前のことを言ってしまったと思ったけれど、ふみさんは目を細めた。
「そうなの。春の初めから順々に何かが咲くようにって。私が飽きないようにって、言ってたわ」
少し間があった。
「飽きっぽいのはお見通しだったのね、あの人に」
ふみさんはそう言って、おかしそうに笑った。私もつられて笑う。庭に、しばらく笑い声が漂った。
「佐和子さんって、損な性格ね」
笑いが収まったころ、ふみさんが言った。
「えっ」
「人の世話を焼きすぎるのよ。実家のお父さんのことも、一雄のことも、うちのことも。自分のことは後回しにして」
「でも、父が転んだんですよ」
「わかってる。それが間違いだとは言ってない。ただ、たまには、誰かに押しつけてもいいと思うの。罰は当たらないから」
私はふふ、と笑ってしまった。
風が吹いて、コデマリの花がまたいっせいに揺れた。白い小さな花びらが二、三枚、ふわりと石畳に落ちる。
「来年は、どこかで桜を見ましょうよ」
ふみさんが言った。誘うというより、独り言のような口調だった。
「東北辺りだと四月の頭ね。温泉にでも行きながら」
「ぜひ」
私は素直にそう答えた。来年も桜は見逃すかもしれない。でも、それならそれで、こうして縁側に座って、義父が丹精した木々を眺めながら春を過ごすのも、悪くはないと思った。
春爛漫というのは、きっとこういうことだ。公園の満開の桜の下ではなく、縁側で姑と肩を並べて、亡き人が遺した花の名前を、ようやく覚える。そういう春が、あってもいい。
台所でやりかけの夕飯の段取りが、頭の隅に浮かんだ。でも今日は、もう少しだけここにいようと思った。
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佐和子さんふみさんの嫁姑漫才シリーズです。
今年も桜見そびれたなぁ……
誰よりも、ずっとあなたのことをわかっているから
何よりも、ずっとあなたのことを思い続けるから
これからも、ずっとあなたのことを見てるから
だから、ずっとあなたはそのままでいてね
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主人公設定と書き方を間違えると、ストーカーになりかねませんな……
「これからも、ずっと」なんて断言できないけど
できるだけご希望に沿えるよう努力します
なんて、口には出せないけどね。
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広告の出方がアレてすね(´・ω・`)
いや無料で使わせてもらってるから言えた義理じゃないのわかってはいますけどね……
沈む夕日が君の頬を染める
言いそびれた言葉は宵闇に消える