汀月透子

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〈春爛漫〉

 桜の季節は、いつもこんな具合にすれ違う。

 今年こそ花見に行こうと思っていた。職場の同僚に誘われたのは三月の終わりで、お弁当を持って公園へ、という話だったのに。
 当日の朝になって母から電話がかかってきた。父が転んで、大事ではないけれど念のため病院に付き添ってほしいと。
 もちろん断れるはずもなく、同僚には申し訳ないと詫びのメッセージを送り、私は実家へ向かった。

 父の打ち身はたいしたことなく、処置が終わって帰宅したのは夕方だった。スマートフォンに届いた同僚の写真を見ると、満開の桜の下、みんな嬉しそうに笑っている。空は信じられないくらい青かった。

 翌週末には雨が続き、桜はあっという間に散った。

「佐和子さん、ちょっと」

 縁側から、義母のふみさんの声がした。昼過ぎのこと、私は台所で夕飯の段取りを考えながら、特に何をするでもなくぼんやりしていた。

「どうしたんですか」

 縁側へ出ると、ふみさんは庭を向いたまま言った。

「今日はいい日和だから」

 促されるまま庭に目をやって、私は少し驚いた。いつも通り素通りしていた庭が、今日はなんだか違って見える。物置の脇に立つ木に、薄桃色の花が房になって垂れ下がっている。

「あれは何ですか」

「ミツバツツジ。もうすぐ終わりかけだけど、今年はよく咲いたわ」

 言われてみれば、枝の先がほとんど花で埋まっている。葉が出るより先に咲くのか、花だけが鮮やかに、空に向かって広がっていた。その手前には、白い小さな花を無数につけた木がある。

「コデマリはまだ盛りね」

 丸くまとまった花の塊が、枝の重さでゆるやかにしなっている。その奥、石畳の突き当たりには、黄緑色の葉を芽吹かせたばかりの木が一本。

「あれはまだ花が咲いてないですね」
「ジューンベリー。花はもう終わったの。
 実がなるのは梅雨のころよ。赤くて、小さくて、かわいらしいの」

 ふみさんは縁側の端に腰を下ろした。私もその隣に座る。

「全部、お義父さんが植えたんですか」
「そう。あの人、庭いじりが好きでねえ。
 私はてんで興味がなくて、水やりくらいはしたけれど、あとは全部任せきりだったの」

 ふみさんは膝の上で手を組んで、庭を見た。

「亡くなってから、はじめて名前を調べたのよ。
 五十年近く一緒に暮らして、何が植えてあるかも知らなかった。お恥ずかしい話でしょう」

 私は何と言えばいいかわからなくて、黙ってコデマリを見た。風が吹くと、白い花の房がいっせいに揺れる。

「……花見、行けなかったんですってね」
「ふみさん、聞いてたんですか」
「一雄から。かわいそうだって言ってたわよ」

 私は苦笑した。夫もよけいなことを言う。

「まあ、毎年のことですから」
「毎年?」
「桜の時期って、なぜかうまくいかないんです。
 雨が降るか、仕事が入るか、今年みたいに実家のことが起きるか。結婚して以来、ちゃんと見られた試しがなくて」

「まあ」

 ふみさんは静かに笑った。責めるでも、慰めるでもない、穏やかな笑いだった。

「でもねえ、佐和子さん。桜って、みんなが一斉に騒いで、散ったらそれでおしまいでしょう。
 この子たちは誰も見てなくたって、毎年ちゃんと咲くの。あの人が逝ってもう七年になるけれど、一度も休まずに」

 私は庭をもう一度、ゆっくりと見渡した。

 午後の光が石畳を白く照らしている。ミツバツツジの薄桃色、コデマリの白、ジューンベリーの柔らかな黄緑。派手ではないけれど、それぞれがそれぞれの時期に、静かに盛りを迎えている。

「お義父さんは、順番を考えて植えたんでしょうね」

 口に出してから、少し気恥ずかしくなった。当たり前のことを言ってしまったと思ったけれど、ふみさんは目を細めた。

「そうなの。春の初めから順々に何かが咲くようにって。私が飽きないようにって、言ってたわ」

 少し間があった。

「飽きっぽいのはお見通しだったのね、あの人に」

 ふみさんはそう言って、おかしそうに笑った。私もつられて笑う。庭に、しばらく笑い声が漂った。

「佐和子さんって、損な性格ね」

 笑いが収まったころ、ふみさんが言った。

「えっ」

「人の世話を焼きすぎるのよ。実家のお父さんのことも、一雄のことも、うちのことも。自分のことは後回しにして」

「でも、父が転んだんですよ」

「わかってる。それが間違いだとは言ってない。ただ、たまには、誰かに押しつけてもいいと思うの。罰は当たらないから」

 私はふふ、と笑ってしまった。

 風が吹いて、コデマリの花がまたいっせいに揺れた。白い小さな花びらが二、三枚、ふわりと石畳に落ちる。

「来年は、どこかで桜を見ましょうよ」

 ふみさんが言った。誘うというより、独り言のような口調だった。

「東北辺りだと四月の頭ね。温泉にでも行きながら」

「ぜひ」

 私は素直にそう答えた。来年も桜は見逃すかもしれない。でも、それならそれで、こうして縁側に座って、義父が丹精した木々を眺めながら春を過ごすのも、悪くはないと思った。

 春爛漫というのは、きっとこういうことだ。公園の満開の桜の下ではなく、縁側で姑と肩を並べて、亡き人が遺した花の名前を、ようやく覚える。そういう春が、あってもいい。

 台所でやりかけの夕飯の段取りが、頭の隅に浮かんだ。でも今日は、もう少しだけここにいようと思った。

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佐和子さんふみさんの嫁姑漫才シリーズです。
今年も桜見そびれたなぁ……

4/11/2026, 9:43:28 AM