〈静かな終わり〉
年末の街は、正月を迎える準備で浮き足立っていた。門松を並べる店、福袋の広告を貼り出す店。すれ違う人々の足取りも、どこか軽い。
カフェの扉を開けると、温かい空気と甘い香りが顔を撫でた。
店内を見渡す。窓際の席に、彼はすでに座っていた。
「待ちましたか」
私が声をかけると、彼は慌てたように顔を上げた。
「いや」
短い返事。視線が落ち着かない。年末の忙しい時期に呼び出されて、早く終わらせたいのだろう。
私は向かいの席に座り、何気なく彼の左手に目をやった。
いつものように、結婚指輪を外している。
(そういうところよね……)
心の中でため息をつく。私に会うときだけ外す、その小さな配慮が今は虚しい。
注文を済ませ、カップが運ばれてくるまで、変な沈黙が流れた。彼はスマートフォンをいじり、私は窓の外を眺める。そんな関係を、もう十年近く続けてきた。
「もう終わりにしましょう」
私は正面から彼を見つめて言った。
「来年、繁忙期が終わったら退職します」
彼の手が止まった。コーヒーカップを持ち上げかけた手が、宙で固まる。
「……他に男ができたか」
その問いかけに、思わず笑ってしまいそうになった。
「妻とは会話もない、でしたっけ」
私はスマートフォンを取り出し、メッセージアプリのログを開いた。画面をスクロールしながら、あの頃の甘い言葉を黙読する。
家に帰っても一人でいるのと変わらない、と。
「……二人目のお子さんが生まれるんですってね」
彼の顔が強張った。何で知っているのか、という表情。
「聞いてしまったとき、結構ショック受けちゃった自分がイヤになったの」
淡々と、できるだけ静かに言葉を選ぶ。
感情的になって、泣いて、喚いて──そんな終わり方はしたくなかった。
「いや、子供ができたのは事故みたいなもので」
彼が言い訳を始めた瞬間、私は手を上げて遮った。
「これ以上嫌いにさせないで」
彼の目が見開かれる。
「身体(それ)だけの関係だって割り切っていたつもりだけど」
私はできるだけ微笑んで見えるよう表情を作りながら続けた。
「……それでも愛してもらえているのかと、1%ぐらいは思っていたのよ」
彼は何も言えず、俯いた。
しばらくして、彼は席を立った。
会計を済ませ、コートを羽織る。私は彼を引き止めなかった。
「……じゃあ」
小さく呟いて、彼は私の顔を見ることもなくカフェを出て行った。
窓越しに、夕暮れの街に消えていく彼の後ろ姿を見送る。少し肩を丸めて歩く背中が、妙に小さく見えた。
『認めたくないけど、あなたのことがずっと好きだったのよ』
心の中で独りごちる。
でも、もう言わない。言ったところで何も変わらない。変わるのは、これからの私だけだ。
残ったコーヒーを飲み干して、私も店を出た。
空を見上げる。薄暗い空に、ぽつりぽつりと星が瞬き始めている。
「静かに終えることができたからいいよね」
小さく呟いた。自分に言い聞かせるように。
もう、独りで過ごしても大丈夫。家庭を優先するあの人に心乱されることもない。
新しい会社で、新しい関係を築けばいい。
年末、どう過ごそうか。大晦日まで、あと数日しかない。
「今からどこかホテル取れるかな」
そう考えて、少し笑った。
いや、またあてもなく電車に乗って出かけるのもいい。除夜の鐘が響く古い寺の、凛とした空気に触れてみたい。
それとも、初日の出を見に行こうか。水平線から昇る光を、一人で静かに迎えるのも悪くない。
人混みを抜けて、駅へ向かう。アーケードには「迎春」の文字が躍り、福袋の予約を呼びかける声が響いている。
来年を祝う賑やかさの中を、私は背を伸ばし一人歩いていく。
駅前のイルミネーションが、人々の歩む影を長く伸ばしていた。消えかけていた何かが、また静かに灯り始めるような気がした。
綺麗なものが見たい。澄んだ空気の中で、新しい光を浴びたい。
くだらない物語を一つ終えて、歩き始めたい。
さよなら、あなた。
さよなら、揺れ続けていた私。
──────
「揺れるキャンドル」後日譚です。
ビミョーに不穏な話ですけど、静かに終わらせたということで。
今年の不穏は今年のうちに。(年またぎで書いてますけど
モチーフは、スターダストレビューさんの「1%の物語」という曲です。何年前だ。
〈心の旅路〉
「だからさ、話の進行がじれったいんだよ」
映画研究会の部室で先輩の声が響く。
テーマは古いアメリカ映画「心の旅路」。記憶喪失の主人公が、長い年月を経て記憶と愛情を取り戻すまでの物語だ。
「いやいや、これぞ王道のメロドラマでしょう」と別の部員が反論する。
「ああいう丁寧な描写があるから、ラストが生きるんだって」
僕は黙って二人のやり取りを聞いていた。
確かに展開は遅い。子供の頃、祖父と一緒にこの映画を観たときも、途中で眠くなった記憶がある。
でも、今観ると違って見える。
「僕は婚約者の決断が印象的でした」
全員の視線が僕に集まる。
「記憶を取り戻した主人公の心の奥底には、別の誰かがいる。
婚約者はそれに気づいて、身を引く。主人公の幸せのために」
「ああ、そのシーンね」先輩が頷いた。
「でも脇役だよね、それ」
「脇役がいいからストーリーの良さが際立つんですよ。この作品は他の脇役達もセリフが活かされた構成になってる」
そう答えた僕を、同じ学年の大森梨子が興味深そうに見ていた。切れ長の目が、いつもより少し細められている。
部会が終わって、梨子が僕に声をかけてきた。
「水野くん、いつも脇役に着目するよね」
「そうかな」
「そうだよ。前に『カサブランカ』観たときも、ピアニストのサムの話ばかりしてたじゃん」
言われてみれば、そうかもしれない。
「……水野くん、映画作りたいの?」
突然の質問に、僕は言葉に詰まった。
「わからない。
本格的に作るなら映画制作サークルがあるけど、そこまでは考えてないし」
「ああ、あっちは体育会系だからね」
梨子が苦笑する。
「私もそれが嫌で、こっちにしたんだよね。観るのは好きだけど、作るのはまた別だし」
「そうそう」
でも、梨子の質問は胸に引っかかっていた。
「実はね、うちの祖父が昔、映画制作に関わってたんだ」
「え、本当に?」
「助監督見習いみたいなポジションだったらしいけど。
家庭の事情で諦めたって」
梨子は黙って聞いていた。
「その祖父とよく古い映画を観たんだ。
『心の旅路』もね。子供の頃は退屈だったけど、祖父は何度も繰り返し観てた」
「そうなんだ」
「この前、祖父が亡くなって。遺品整理してたら、未完の脚本が出てきたんだ」
脚本は黄ばんで、インクも褪せていた。丁寧な文字で書かれた物語は、途中で終わっていた。
行間から、何かを諦めた人の無念が滲み出ているように感じた。
「祖父は、映画を諦めたことを後悔してたのかなって思って」
「お祖母さんには聞いた?」
僕は首を横に振った。聞くのが怖かった。
もし、祖父が夢を諦めたことを一生後悔していたとしたら。その重さに、僕は耐える自信がなかった。
「聞いてみなよ」梨子が言った。
「知らないまま悩むより、知った方がいいこともあるよ」
──
週末、僕は祖母の家を訪ねた。脚本を見せると、祖母は懐かしそうに目を細めた。
「ああ、これ。
あの人、ずっと書いてたわね」
「……おじいちゃんは映画を諦めたこと、後悔してなかった?」
祖母は少し考えてから、きっぱりと言った。
「後悔なんてしてなかったわよ」
「でも、夢を諦めて」
「諦めたんじゃないの。選んだのよ、あの人は」
祖母は昔を思い返すように遠い目をした。
「確かに映画が好きだった人だった。でも、あの人はもっと家族が好きだった。
あなたのお父さんが生まれて、私が体を壊して……そのとき、あの人は迷わず選んでくれた。私たちを」
「後悔は…」
「なかったわ。あの人はよく言ってたの。
『人生は選択の連続だ。大事なのは、選ばなかった道を悔やむことじゃない。選んだ道を正解にすることだ』って」
祖母の言葉が、胸に染み入る。
「あの人ね、あなたと『心の旅路』を観るのが好きだったのよ。
あの映画の登場人物たちは、みんな自分の道を選んで生きてる。それを、あなたに見せたかったんじゃないかしら」
そうだったのか。祖父が何度もあの映画を観ていた理由が、少しわかった気がした。
「この脚本が未完なのはね、完成させる必要がなくなったからよ。
あの人の物語は、この脚本じゃなくて、私たちとの人生になったの」
──
月曜日、梨子にそのことを話した。
「よかったね」と梨子は微笑んだ。
「で、水野くんはどうするの?映画」
「わからない。
でも、祖父の未完の脚本を完成させるためじゃなくて、自分のために考えてみようと思う」
「自分のために」
「うん。祖父は祖父の道を選んだように俺は俺の道を選ぶ。
それが映画なのかどうかは、まだわからないけど」
梨子は「心の旅路」って感じだねと言った。
「何それ」
「水野くんの、心の旅路。
選ばなかった道への執着じゃなくて、自分の道を見つける旅」
なるほど、と僕は思った。
あの映画の婚約者も、主人公も、それぞれの「心の旅路」を歩んでいた。
そして今、僕も自分の旅路の入り口に立っている。
「梨子さん、もし俺が映画作るなら、脚本読んでくれる?」
「もちろん。でも、主役じゃなく脇役に重きを置く物語になりそうだけどね」
「いいじゃん、脇役がいないと映画は成り立たない」
二人で笑いながら、僕たちはキャンパスを歩いた。
まだ何も決まっていない。でも、それでいい。
人生は選択の連続で、大事なのは選んだ道を正解にすること。
祖父が教えてくれた、その言葉を胸に、僕は自分の心の旅路を歩き始める。
──────
何も思いつかなくて、元ネタの映画の話になりました。
古いアメリカ映画ってファッションとかもワクワクしますよね。
水野くんは水野晴郎氏、莉子さんは小森のおばちゃま+LiLiCoさんより。
淀川先輩や荻先輩もいらっしゃいます。
いやぁ、映画って本当にいいものですね。(昭和ネタ
昨日の分、「雪明かりの夜」妻サイドのお話です。
そちらを先に読んでいただいた方が良いかもです。
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〈凍てつく鏡〉
従姉の雪が嫁ぐ日、私は小学校に上がったばかりだった。
二十歳そこそこの雪姉ちゃんは、隣町でも評判の資産家の家に嫁入りすることになった。
母は「良縁」と喜んでいたが、私には大人の会話の端々に漂う微妙な空気が分かった。
嫁入りの日、母に連れられて雪姉ちゃんの家を訪ねた。
大人達が支度に忙しく動き回る中、私は雪姉ちゃんの姿を探す。
花嫁衣裳に身を包んだ雪姉ちゃんが、大きな鏡の前に座っていた。白無垢姿の雪姉ちゃんは、まるで雪そのもののように透き通って見えた。
「……冬ちゃん、来てくれたの」
こっそり見ていた私に気づいて振り返った雪姉ちゃんの目には、涙が浮かんでいた。慌てて拭う仕草に、私は「おめでとう」の一言も言えなかった。
迎えの俥(くるま)に乗る雪姉ちゃんの瞳は凍りついたように動かなかった。
それから数年後、雪の降る日に雪姉ちゃんがいなくなったと母から聞いた。
「どこかへ行ってしまったらしい」という曖昧な言葉だけが、私に伝えられた。
大人になってから、母の愚痴で真実を知る。
雪姉ちゃんは相当年上の資産家に見初められ、結納金として家の借金を肩代わりしてもらったこと。
嫁ぎ先で姑にいびられ、使用人のように扱われていたこと。
実の母──私の母の姉が危篤の時も、帰ることを許されなかったこと。結局、雪姉ちゃんは母の死に目に会えなかった。
「あの子は可哀想だった」
「逃げたなら、その先で幸せに暮らしていればいいけど」
母はそう言って、二度と雪姉ちゃんの話をしなくなった。
私は就職で上京し、同郷の男性と結婚した。
夫は昔話なぞしない人なのに、あの雪の夜はふいに話し始めた。
「昔、故郷で雪女のような女性を見たことがある」
夫が語ったのは、真冬の夜、橋のたもとで出会った美しい女性の話だった。
雪のように白い肌、血のように赤い唇。橋のたもとで川の向こうを見つめていたという。
「まるで、この世のものとは思えない美しさだった。
あの人は本当に雪女だったのかもしれない」
六十年以上も前の一瞬の出来事を、夫は鮮明に覚えていた。
胸の奥に、冷たい思いが広がった。一瞬、それが嫉妬だと気づいて、自分でも驚いた。
でも、すぐに思い直す。
──雪姉ちゃんの嫁ぎ先の隣町は、夫の実家の近くだった。時期も一致する。
夫が見たのは、もしかして──
六十年も前の記憶の中で、雪姉ちゃんは永遠に美しいままでいる。白無垢姿で鏡の前にいたあの日のまま、凍りついた時の中に留まっている。
夫の記憶の中でも、雪姉ちゃんは雪女のように美しく、儚く、神秘的な存在として生き続けている。それは、きっと悪いことではない。
窓の外では、今夜も音もなく雪が降っている。
「……雪の夜は、連れていかれやすいのよ」
私は夫にそう言って、窓辺に立った。
いつの間にか雪は止み、雲の切れ間から満月が顔を覗かせていた。
凍てついた鏡のように光を湛えた月。
その光の中に、白無垢姿の雪姉ちゃんがいた気がした。もう泣いてはいない。ただ静かに、遠くを見つめている。
雪姉ちゃん、どこかで幸せになれましたか──
問いかけに答えるように、また雪が降り始めた。音もなく、景色の境目を消しながら。
──────
……ホラーで終わらなくて良かった( ;∀;)
というわけで100作品達成。ヤッター!
読み返しづらいので、古いお話から外部に移植する予定です。
〈雪明かりの夜〉
明かりもつけず、私は部屋の中から外の雪を見ていた。
街灯に照らされた雪は、音もなく降り続き、夜を白く満たす。境目というものが、すべて曖昧になる。
七十をとうに越えた今でも、雪明かりの夜だけは、過去と現在が同じ場所に立つ。
就職で上京して以来、故郷には年に一度帰るかどうかの暮らしだった。
親も縁戚も亡くなり、戻る理由もなくなった。それでも雪が降ると、思い出す人がいる。
──
中学生の頃、町で一番の資産家に嫁いできた若い女性がいた。大人たちは皆「奥さん」と呼び、名を口にしなかった。
愛だ恋だという言葉が届かぬほど、遠く、儚い人だった。透き通るようで、最初から長くは留まらぬ存在のように見えた。
「えらい綺麗な人だねえ」
「でも、幸せかどうかは分からんよ」
「金があっても、自由はないって話だ」
そんな声が、冬の空気に溶けていった。
彼女が誰かと一緒のところを見かけたことがある。
夕暮れの川沿いだった。彼女と、資産家の家で働く男が並んで立っていた。名は知らないが、町の者なら誰でも顔を知っている男だ。
二人は少し距離を空け、川の流れを見ていた。触れ合わぬその間合いが、かえって親密に見えた。
「この前さ、川のとこで見たんだよ」
「奥さんと、あそこの使用人?」
「なんだろうね、あの雰囲気は」
無責任な噂はいつも、断片だけを残して広がった。
大晦日の夜、私は二年参りに出かけた。家族と一緒に出かけたはずなのに、気づけば姿が見えない。
橋のたもとで、ふいに雪がやんだ。月明かりに浮かび上がったのは、あの奥さんだった。
雪のように白い顔、紅をさした唇は血のように赤い。雪雲の切れ間で三日月が冴え、その冷たい光を浴びる姿は、この世のものとは思えなかった。
彼女は橋のたもとで、川の向こうを見ていた。
誰かを待っている──そう思った。相手の顔は浮かばなかったが、誰なのかは分かっていた。
──再び雪が降り始め、記憶はそこで途切れている。
年が明けて間もなく、彼女がいなくなったという噂が町を駆け巡る。
「駆け落ちだろ」
「相手は、あの使用人だってさ」
「逃げても仕方ないよ、あそこの旦那と大奥さんが厳しかったそうだし。
実の母親が危篤でも帰してもらえなかったらしいよ」
噂好きのおばたちが声を潜めて言うことに、祖母が独りごちる。
「雪みたいな人だったねえ。
ああいう人は、溶けるように消えるんだよ」
私は勝手に思った。あの人は雪女で、雪とともに去ったのだ、と。
十ばかり上の、彼女。
あの夜、橋のたもとで待っていた相手と一緒に幸せになれただろうか。
幸せでなくとも、息の詰まらぬ場所へ行けただろうか。
──
窓の外では、今も雪が降っている。
同じように、音もなく景色の境目を消しながら。
「明かりもつけないで……何を見ているの」と妻が部屋に入ってくる。
「昔、雪明かりの中で見たんだよ」
私は振り返り、妻にあのときの話をした。
昔、故郷に雪女のような人がいたこと。
雪の夜、橋のたもとで見た白い顔のこと。
妻は黙って聞いていた。
私が話し終えると、少しだけ口元をゆるめた。
「……雪の夜は、連れていかれやすいのよ」
いつの間にか雪は止み、満月が出ていた。
雪明かりが部屋の中まで滲み込み、冷たく微笑む妻の顔を白く曖昧にした。
──────
あれ、昔の美しい記憶を思い浮かべる叙情的なお話だったのに、なぜかホラー調になってる……( ;∀;)
〈祈りを捧げて〉
「クリスマスだから早く上がろう」
上司がそう言って、定時きっかりにフロアを出て行った。
あっという間にオフィスから人が消えていく。デスクを立つ同僚たちの会話が耳に入る。
「じゃあ、例の店で八時ね」
「独身組は全員集合な」
誰かがこっちを見た気がしたが、目を合わせないようにモニターに視線を戻した。
静まり返ったオフィスで、キーボードを叩く音だけが響く。
待ってる家族もいない。かといって、独身同僚たちが集う飲み会に参加する気もない。
クリスマスイブに傷を舐め合うような集まりに、何の意味があるのだろう。
クリスマスは家族のため、誰かの幸せを祈れる人のイベントだ。それを毎年、思い知らされる。
楽しくなくなったのは、いつからだろう。
子供の頃は好きだった。ケーキを食べて、ご馳走を食べて。
母が作ってくれたローストチキンは少し焦げていたけれど、家族三人で食卓を囲んだ。
そして、翌朝の枕元にはプレゼント。あの頃は、父も笑っていた。
けれど、小学四年生のクリスマスイブから、何かが変わった。
両親の会話が減った。父の帰りが遅くなった。
サンタクロースが枕元にプレゼントを置かなくなったのも、その頃だ。
中学に入る頃には、父は週末しか家に帰らなくなった。
「仕事が忙しい」と言っていたが、子供心にも嘘だとわかった。
母の目が赤く腫れている朝が増えた。それでも二人は離婚しなかった。俺が成人するまで、形だけの家族を続けた。
父は生活費だけは入れてくれたけど、母はフルタイムで働いた。
「将来困らないように」と言って、休みの日も働いていた。
高校の修学旅行も、大学の入学金も、全部母が出してくれた。
そして大学入学前、奨学金の申請のために戸籍謄本を取り寄せた日。
父親の項目に、見知らぬ名前があった。認知された男の子の名前、年齢は7歳。
その瞬間、すべてが繋がった。
父が家に帰らなくなった理由。母が一人で働き続けた理由。俺たち家族が壊れた理由。
あれから父からのメッセージは、すべて既読無視している。
月に一度は来る。「元気か」「仕事はどうだ」。
今さら何を、と思う。
母が俺を愛してくれているのはわかっている。
電話をすれば優しい声で応えてくれるし、帰省すれば好物を作って待っていてくれる。
だからこそ、余計につらかった。父の愛情が、俺の知らない子供に向けられていることが。
ふいに、スマホが母からの着信を表示する。少し迷ったが、電話に出た。
「もしもし」
「あ、出た。今、忙しい?」
「いや、大丈夫」
「そう。今年も年末は一人で過ごすの?」
母の声は、いつもより少し寂しげだった。
「まあ、仕事もあるし」
素っ気ない返事をしてしまう。母は少し黙った。
「……そう。無理しないでね。ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか。じゃあ、体に気をつけてね」
電話が切れた。
モニターを見つめたまま、しばらく俺は動けないでいた。
母の声が、頭の中でリピートされる。寂しそうな声。気遣うような声。
──母も、一人なのだ。
俺は父を拒絶することで、母まで遠ざけていたのかもしれない。
クリスマスを一人で過ごしているのは、俺だけじゃない。母も同じだ。
それなのに俺は、自分の傷だけを抱えて、母の寂しさから目を背けていた。
──あの、認知された子供は今、どうしているのだろう。
もう高校生になっているだろう。会ったこともない。名前しか知らない。憎むべき存在のはずだった。
けれど、もしかしたらその子も、自分の存在に苦しんでいるのかもしれない。
あるいは、その子の母親。父の愛人だった女性。
両親が離婚するまでの長い間、彼女もまた傷ついていたのではないだろうか。
自分だけが被害者だと思っていた。
けれど、父が作り出した歪みの中で、誰もが苦しんでいたのかもしれない。
俺は目を閉じた。
年末は母と過ごそう。ちゃんと向き合おう。
そして、いつか──今すぐは無理だけれど、いつか──顔も知らない弟のことも、憎しみではなく、同じように傷ついた存在として受け入れられるようになれたらいい。
心の中で、静かに祈った。
母に、穏やかな日々が訪れますように。
あの知らない子供に、温かな居場所がありますように。
そして俺自身も、いつかこの怒りを手放せますように。
──来年は、もう少し違う景色が見えているだろうか。
俺はパソコンをシャットダウンして、オフィスを出た。冬の空気が冷たく頬を撫でる。
イルミネーションの光が、少しだけ温かく見えた。
──────
そういやサンタはいつから来なくなったかなぁ……年末ジャンボの当たりくじお願いしてるから大晦日に来るかなぁ(違