汀月透子

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9/20/2025, 2:35:18 PM

# 既読がつかないメッセージ

 湘南の海沿いの小さなカフェで、俺は三十二歳の誕生日を迎えた。一人で。

 窓越しに見える江ノ島の夕日が、オレンジ色の光を店内に投げかけている。スマートフォンの画面には、昨夜送ったメッセージがまだ「未読」のまま表示されていた。

「誕生日なんだ。よかったらお祝いしてくれない?」

 シンプルな文面だったけれど、送信ボタンを押すのに三十分もかかった。

 相手は高校時代の同級生、塩谷彩里。十年ぶりに偶然この辺りで再会して、連絡先を交換したのが先月のことだった。

 当時から彩里は少し変わっていた。メッセージの返信が遅いのは学生の頃からで、時には数日かかることもあった。でも必ず返してくれる。(先に本人から直接返事をもらったとしても!)
 だから今回も、きっと忙しいだけなんだと思っていた。

 カフェの店員が「お疲れさまでした」と声をかけてくる。もう閉店時間らしい。慌てて席を立ち、外に出ると、夜の海風が頬を撫でていく。

 家に帰る途中、コンビニで缶ビールを買った。一人の誕生日を祝うには十分だろう。自宅に着くと、またスマホを確認した。まだ未読。

 ベランダに出て、遠くに見える江ノ島の灯りを眺めながら缶ビールを開ける。泡が立つ音が、妙に寂しく響いた。

 塩谷彩里との再会は本当に偶然だった。藤沢駅前で開かれていた高校の同窓会の帰り道、俺が一人で歩いていると、後ろから声をかけられた。

「もしかして、田中君?」

 振り返ると、高校時代よりもずっと大人っぽくなった塩谷彩里がいた。髪は短くなっていたけれど、あの優しい笑顔は変わっていなかった。

「塩谷! 同窓会来てたの?」

「ううん、仕事で行けなかったの。でも帰りに駅で田中君の後ろ姿が見えて」

「そうなんだ。久しぶりだね」

 そんな会話から始まって、結局その日は一緒に駅前のファミレスで時間を過ごした。高校時代の思い出話に花が咲いて、気がつくと夜中の十二時になっていた。

「また連絡する」

 別れ際に塩谷彩里がそう言って、スマホの番号を教えてくれた。その時の笑顔が忘れられなくて、俺は何度かメッセージを送った。
 遅くても返事があった。短い文面だったけれど、温かみがあった。
 そして時々同じファミレスで思い出話をする。そんな関係。

 ベランダで二本目の缶ビールを開けながら、俺は考えていた。もしかして、勘違いしていたのもと。
 塩谷彩里にとって俺は、ただの昔の同級生でしかないのかもしれない。

 スマホの画面を見ると、時刻は午後十時を過ぎていた。もう諦めようかと思った時、画面が光った。

塩谷彩里からだった。

「ごめんなさい。お誕生日おめでとうございます。実は」

メッセージは続いていた。

「実は、スマホを壊してしまって、昨日やっと修理から戻ってきたんです。
 データが一部消えてしまって、田中君からのメッセージに気づくのが遅れました。
 本当にごめんなさい」

俺は思わず苦笑いした。なんだ、そんなことだったのか。

「今からでも遅くなければ、お祝いしない?
 江ノ島の近くにいます」

 心臓が大きく跳ねた。スマホを握る手が震えているのがわかった。

「今から行く」

 返事を打つのに、今度は一秒もかからなかった。

 急いで着替えて外に出る。夜の134号線を、俺は小走りで駆ける。海沿いの道を進むと、江ノ島の灯りが近づいてくる。

 約束の場所は、片瀬江ノ島駅だった。竜宮城を思わせるフォルムの駅舎をバックに、塩谷彩里が小さく手を振っているのが見えた。

「待たせてごめん」

「ううん、私の方こそ急に誘って」

 塩谷彩里は手に小さな箱を持っていた。

「誕生日プレゼント。大したものじゃないけれど」

 箱を開けると、木製タグのストラップが入っていた。

「B組だった麻実がハンドメイドアクセサリーの教室始めてて、海岸で拾った流木で作ったの。手作りだから、ちょっと不格好だけど……今度会ったら持って行こうと思ってたの」

「ありがとう」

 俺は素直にそう言った。こんなに嬉しいプレゼントをもらったのは久しぶりだった。

「実は、スマホが壊れた時、連絡先も全部消えちゃって。でも田中君の番号だけは、なぜか覚えていたの」

 塩谷彩里がそう言って微笑んだ。

「不思議だよね」

 夜の江ノ島を背景に、俺たちはベンチに座って話し続けた。既読がつかなかった数日間の心配も、今となっては笑い話だった。

 時々メッセージが届かないことがある。既読がつかないことがある。でもそれは、必ずしも相手が自分を避けているわけじゃない。ただ、タイミングが合わないだけなのかもしれない。

 俺はポケットの中の新しいストラップを握りしめながら、そんなことを考えていた。湘南の夜風が、今度は温かく感じられる。

 三十二歳の誕生日は、結局一人で終わることはなかった。海の向こうに見える灯りのように、人との繋がりも時には遠く感じることがあるけれど、消えてしまうわけじゃない。

 塩谷彩里の隣で、俺は久しぶりに心から笑っていた。

9/19/2025, 1:58:38 PM

「風の色が変わった日」

窓を開けて驚いた。肌を刺すような夏の熱気が消えて、代わりに透明な涼風が頬を撫でていく。
「あ、秋が来た」
心の奥で何かが囁いた。

三か月間、私たちを苦しめ続けた容赦ない太陽は、今日はどこか優しげだった。ギラギラと照りつける光ではなく、穏やかな金色の光が部屋に差し込んでいる。まるで夏という暴君が去って、慈愛に満ちた王様がやってきたようだった。

外に出ると、空気そのものが違っていた。重く湿った夏の大気は軽やかになり、深く吸い込むと肺の奥まで清々しさが染み渡る。汗がにじむことなく歩けることが、こんなにも嬉しいなんて。

街角のイチョウ並木では、まだ緑の葉が大半を占めていたが、よく見ると縁がうっすらと黄色に染まり始めている。「もう少し待ってて」と葉っぱたちが語りかけているようだった。公園のベンチに座る老人の表情も、どことなく穏やかで、「やっと生きられる」という安堵が読み取れた。

近所のカフェでは、夏の間閉ざされていたテラス席に、再び人々が戻ってきた。冷房の効いた室内から逃げ出すように、みんな外の空気を求めている。アイスコーヒーではなく、温かいカフェオレを注文する人の姿が目に留まった。

夕方になると、空の色が変わった。夏の強烈なオレンジではなく、淡いピンクと薄紫が混じり合う、まるで水彩画のような優しい色調だった。風も涼しく、散歩する人々の足取りが軽やかに見える。

夜になって、久しぶりに窓を開けたまま眠れることに気づいた。エアコンの騒音に邦魔されることなく、虫の声を子守唄に眠りにつく。そう、これが本来の夜だったのだ。

翌朝、近所の山を見上げると、緑一色だった木々の間に、ぽつりぽつりと赤や黄色の点が見えた。まるで山が化粧を始めたようで、その控えめな美しさに胸が躍った。

コンビニの前で、女子高生たちが「今日涼しくない?」「やっと夏終わった感じ」と嬉しそうに話している。そうだ、私だけじゃない。みんなが同じように、この解放感を味わっているのだ。

秋は、疲れ切った私たちに差し伸べられた救いの手だった。暑さという檻から解放され、再び自由に呼吸できる喜び。これから始まる紅葉の季節への期待。すべてが新鮮で、まるで生まれ変わったような気持ちだった。

風に揺れる草花も、どこか安堵しているように見えた。私たちは皆、秋という優しい季節に包まれて、ようやく本来の自分を取り戻していくのだった。