# 既読がつかないメッセージ
湘南の海沿いの小さなカフェで、俺は三十二歳の誕生日を迎えた。一人で。
窓越しに見える江ノ島の夕日が、オレンジ色の光を店内に投げかけている。スマートフォンの画面には、昨夜送ったメッセージがまだ「未読」のまま表示されていた。
「誕生日なんだ。よかったらお祝いしてくれない?」
シンプルな文面だったけれど、送信ボタンを押すのに三十分もかかった。
相手は高校時代の同級生、塩谷彩里。十年ぶりに偶然この辺りで再会して、連絡先を交換したのが先月のことだった。
当時から彩里は少し変わっていた。メッセージの返信が遅いのは学生の頃からで、時には数日かかることもあった。でも必ず返してくれる。(先に本人から直接返事をもらったとしても!)
だから今回も、きっと忙しいだけなんだと思っていた。
カフェの店員が「お疲れさまでした」と声をかけてくる。もう閉店時間らしい。慌てて席を立ち、外に出ると、夜の海風が頬を撫でていく。
家に帰る途中、コンビニで缶ビールを買った。一人の誕生日を祝うには十分だろう。自宅に着くと、またスマホを確認した。まだ未読。
ベランダに出て、遠くに見える江ノ島の灯りを眺めながら缶ビールを開ける。泡が立つ音が、妙に寂しく響いた。
塩谷彩里との再会は本当に偶然だった。藤沢駅前で開かれていた高校の同窓会の帰り道、俺が一人で歩いていると、後ろから声をかけられた。
「もしかして、田中君?」
振り返ると、高校時代よりもずっと大人っぽくなった塩谷彩里がいた。髪は短くなっていたけれど、あの優しい笑顔は変わっていなかった。
「塩谷! 同窓会来てたの?」
「ううん、仕事で行けなかったの。でも帰りに駅で田中君の後ろ姿が見えて」
「そうなんだ。久しぶりだね」
そんな会話から始まって、結局その日は一緒に駅前のファミレスで時間を過ごした。高校時代の思い出話に花が咲いて、気がつくと夜中の十二時になっていた。
「また連絡する」
別れ際に塩谷彩里がそう言って、スマホの番号を教えてくれた。その時の笑顔が忘れられなくて、俺は何度かメッセージを送った。
遅くても返事があった。短い文面だったけれど、温かみがあった。
そして時々同じファミレスで思い出話をする。そんな関係。
ベランダで二本目の缶ビールを開けながら、俺は考えていた。もしかして、勘違いしていたのもと。
塩谷彩里にとって俺は、ただの昔の同級生でしかないのかもしれない。
スマホの画面を見ると、時刻は午後十時を過ぎていた。もう諦めようかと思った時、画面が光った。
塩谷彩里からだった。
「ごめんなさい。お誕生日おめでとうございます。実は」
メッセージは続いていた。
「実は、スマホを壊してしまって、昨日やっと修理から戻ってきたんです。
データが一部消えてしまって、田中君からのメッセージに気づくのが遅れました。
本当にごめんなさい」
俺は思わず苦笑いした。なんだ、そんなことだったのか。
「今からでも遅くなければ、お祝いしない?
江ノ島の近くにいます」
心臓が大きく跳ねた。スマホを握る手が震えているのがわかった。
「今から行く」
返事を打つのに、今度は一秒もかからなかった。
急いで着替えて外に出る。夜の134号線を、俺は小走りで駆ける。海沿いの道を進むと、江ノ島の灯りが近づいてくる。
約束の場所は、片瀬江ノ島駅だった。竜宮城を思わせるフォルムの駅舎をバックに、塩谷彩里が小さく手を振っているのが見えた。
「待たせてごめん」
「ううん、私の方こそ急に誘って」
塩谷彩里は手に小さな箱を持っていた。
「誕生日プレゼント。大したものじゃないけれど」
箱を開けると、木製タグのストラップが入っていた。
「B組だった麻実がハンドメイドアクセサリーの教室始めてて、海岸で拾った流木で作ったの。手作りだから、ちょっと不格好だけど……今度会ったら持って行こうと思ってたの」
「ありがとう」
俺は素直にそう言った。こんなに嬉しいプレゼントをもらったのは久しぶりだった。
「実は、スマホが壊れた時、連絡先も全部消えちゃって。でも田中君の番号だけは、なぜか覚えていたの」
塩谷彩里がそう言って微笑んだ。
「不思議だよね」
夜の江ノ島を背景に、俺たちはベンチに座って話し続けた。既読がつかなかった数日間の心配も、今となっては笑い話だった。
時々メッセージが届かないことがある。既読がつかないことがある。でもそれは、必ずしも相手が自分を避けているわけじゃない。ただ、タイミングが合わないだけなのかもしれない。
俺はポケットの中の新しいストラップを握りしめながら、そんなことを考えていた。湘南の夜風が、今度は温かく感じられる。
三十二歳の誕生日は、結局一人で終わることはなかった。海の向こうに見える灯りのように、人との繋がりも時には遠く感じることがあるけれど、消えてしまうわけじゃない。
塩谷彩里の隣で、俺は久しぶりに心から笑っていた。
9/20/2025, 2:35:18 PM