「ひなまつり」
うぶな乙女の照れた頬のような梅が咲いている。
幼い頃は梅の木なのに梅干しの匂いがしないのを不思議に思っていたものだ。
逆に甘くて官能的な香りと梅干しが結び付かなくて、この私の予想を裏切ったとして好きな花ではなかった。桜の花の方が人気だし綺麗だし。
大人になってから、春の訪れを知らせてくれる香りが梅の花なのではないかと気付いた。
立派に花びらを伸ばして堂々と咲く桜と比べて、しおしおな梅の花弁はむしろ若々しさを感じる。
桜じゃなくて梅の花みたいな女の子になるべきだったなあ……。
量産型の桜ではなく、甘美な香りを発していながら顔を必死に隠すような梅の花に。
きっと世間的に好かれるのはそういう女の子なのだ。
スマホには結婚式のご招待サイトが開かれている。
今の時代は紙の招待状ではなくサイトを使って出席のアンケートを取るらしい。合理的で効率的だ。情緒はないけど。
「ちょっと手伝って」
押し入れから母親のくぐもった声がした。
「なにー?」
スマホの画面を下に向けて母親に声をかける。
押し入れに頭を突っ込んで尻をこちらに向けている姿は滑稽だ。
「おひなさま出すの手伝って」
「え?いいよ。もう何歳だと思ってるの」
母親は少し照れたように言った。
「娘が生きてる限りよ」
そんな伝統守るタイプだったっけ?と子供な私は不思議に思った。
たった1つの希望
自分は強い人間だと思う。
どんなに絶望的な状況でも弱音を吐くこともなく生きてきた。他人が経験しなくてもいいようなことを背負わされても負けてたまるか、と生きてきた。
だからこそ初めての温かさがどれほど熱いものなのか分からなかったのだ。
出会いは雨の日だった。
「私家近いので、もしよかったら使いますか?」と見ず知らずの私に傘を差し出した。少し警戒しながらも受け取った傘は自分の傘より軽くて驚いた。
そしてシャンとした姿勢を曲げることなく走っていった。
彼女の傘に落ちる雨はとても楽しげで軽やかな音がした。
初めて誰かに守られた気がした。これまで降りかかる雨もそのままに、空に背を向けて自分の進む足だけ見て走ってきたのだ。
しかしあまりにも頼りなく楽しそうな傘は私を守るのに十分で、初めて私は雨空を見上げた。
傘を返すのが惜しいくらいだった。
守りたいと思ったのだ。
あまりにも軽い傘は彼女がか弱い存在であるということを意味しているようで自然とそう思ったのだ。
また雨の日だった。
傘は返しそびれて1ヶ月経っていた。自分の重たく長い傘の下から彼女の姿を見つけた。
今度は守る側になれる、と嬉しくなったのも束の間、彼女は悠然と雨の中を歩き出した。
まるで晴れ空を見ているかのように眩しそうに空を見上げて、あの時と同じようにシャンと背筋を伸ばして悠然と歩いていた。
気高く凛とした後ろ姿は優美なラインをあらわにし、柔らかさまで醸し出していた。
その途端話しかける勇気を失った。
心に感じていた温かさが急に熱くなって苦しくなった。それは高揚感などではない。
敗北感だ。
生き物して、人として、自分などが守れるような存在ではない。
彼女の傘がなぜ軽いのか分かった気がした。
「小さな命」
窓枠に寄りかかっていると外から漏れる冷気で背筋が伸びる。それよりももっと冷たい感情がずっしりと湿度を帯びていく。
震える子供。タンスからありったけの服を取り出してきて抱えてうずくまる。
押し入れから布団を取り出すほどの力もなく、いつか母親が被せてくれた毛布の記憶を頼りに本能で温かさを求めている。
ストーブの付け方も分からない。エアコンのリモコンには届かない。親はずっと帰っていない。
自分のできる限りの知恵と力を絞って命を繋ごうとする姿に心が痛くなる。
これまでたくさん弱った人間の命を刈り取ってきた。
もちろんこんな子供も何人も見てきた。絶望する子供、大人を憎しみ叫ぶ子供、諦めて笑う子供。
刈り取る瞬間、子供はいろんな表情を見せる。それが楽しみの一つでもあった。
小さな命は重ねた罪も少ないのですぐに輪廻する。
子供を狩ることは子供にとっても自分にとっても利益しかないのだ。
荒い呼吸がだんだんと規則正しくなっていく。
背中が大きく上下する。
眠りについたのだ。
窓から離れて彼を見下げる。希望を持つ子供には穏やかに眠っていてほしかった。
それが永遠の眠りであっても。
「枯葉」
たぶん、分かんねぇけど、家ってこんなのかなって思った。
いつのまにか擦り傷ができるような冷たい風も手が水玉になるような感覚も、もうない。
全身を包んでいるのは今まで味わったことがないような柔らかさとあたたかさだ。
霞んだ視界は灰色の空が広がっていてゆっくりと白いものが落ちてきている。
雪が降っているのだ。
雪が降っているのにこんなにも温かいのだ。
分かんねぇけど、世間で言われてる家ってこんなのなんかね。
寒くてもあたたかく迎えてくれるところ。
もう死ぬのに今さら知りたくなかったよ。カタギな生き方をしてたらもっと早く出会えてたんだろうか。霞んだ視界が滲む。どこか懐かしい土の匂いが途切れる。
クソッタレな人生にふさわしい最期だ。
俺の家は虫と同じ枯葉の上だったってわけか。
撃たれた右腕にまるで絆創膏のように枯葉が落ちる。
まどろむ。こんなに穏やかな眠りは初めてだ。
「今日にさよなら」
こんな天気の日は洗濯日和だとウキウキになるのはジブリの中だけだ。
洗濯機も置けない6畳一間の部屋を出てコインランドリーに足取り重く辿り着く。
洗剤を入れてピッとスイッチを押せば重い音を立てて回り出す。
ぐるぐると、ごろごろと。
たくさんの人の服を洗った洗濯機に入れると私の服が私のじゃなくなっていくみたいだ。どうせいいのだ。
もともと私のじゃないし。
シャネル、エルメス、ルイヴィトン…
古い洗濯機に安っぽい洗剤で洗われるブランドたちは何がなんだか分からない様子で回っている。
シルクの生地は光沢を失い、金属のベルトが傷つく音が聞こえる。
私にはまだ早かった。すべてが。身の丈に合わない服に身を包んで愛を知った気になって。
こんなブランドよりも私が洗われたい。清らかに綺麗になって一から全部やり直したい。
でも私に新しいスタートラインがあるのだろうか。
今日にさよならを告げたところで新しい明日が来るのだろうか。
私は汚れ切った体を脱ぐことはできないのだ。