大切なあなたが倒れた。
幸い、一命は取り留めて、意識はある。でも、人工呼吸器の管が入っていて、言葉を交わすことができない。
私たちは、よく喋るふたりだった。ほんの些細なことだってよく話した。そんな毎日の小さな日常が、私にとってすごく特別だったんだって、こんな状態になって初めて気づいた。
あなたのお見舞いに行ったら、あなたは目を開けて薄く笑ってくれる。小さく手を動かしてくれる。私が話せば、首を縦に振ったり横に振ったりして反応してくれる。
でも、あなたが唇を動かして、何かを言おうとしている時、私はそれを理解できない。あれやこれやと想像して口にしてみるけれど、あなたは首を横に振ってしまう。
もどかしい。きっとあなたが一番もどかしいのだと思うけれど、そう思わずにはいられない。
ああ、私が超能力者だったらな。そうしたらあなたの気持ちを察することがきっとできたのに。
お見舞いから帰って、1人分の夕食を作って食べて、お風呂に入って、そして、ベッドに入る。
前までふたりで寝ていたベッドに、独りで寝る。
さびしい。
目を閉じても、聞こえるのはひとりぶんの音だけ。隣から、あなたの音は聞こえない。
苦しい。
夏なのに、何だか寒いような心地がする。
瞼の裏の暗闇を見つめながら、思う。
夢の中で、あなたに会いたい。そしたら、きっと、前みたいにお話できる。
昼間喋れなかった分を、ふたりで喋り倒したい。
そして、眩しい笑顔のあなたが見たい。
ねえ、ふたり、心だけ、夢の世界で。
苦しい場所から逃げ出して、笑いあおうよ。
【心だけ、逃避行】
願い事を短冊に託して、夜空に祈る。
私の力ではとても叶えることはできない願い事。
もし神様みたいな超常の存在があるなら、どうか叶えてほしい。
切実な想いを秘めて夜空を見上げる。美しい光の帯、天の川がはっきりと見える。
今年は織姫と彦星は出会えたんだろうな、と思った。
私の願い事もどうか叶いますように。届くはずのない星に手を伸ばして、私はまた祈った。
空恋 後日書きます
俺の家は、海岸にほど近い場所にある。初夏、部屋にもわりとこもった暑さに耐えかねて窓を開ければ、涼しい潮風とともに、波音が聞こえてきた。
近くの海岸は、昨年亡くなった親父とよく行った場所だ。何か2人で話したいとき、決まって親父は俺を海岸へ連れ出した。そして、足元で波の冷たさを感じながら、いろいろな話をしたのだった。
例えばそれは恋愛相談だったり、進路の相談だったりした。それ以外の些細なことも、よく話した記憶がある。小さい頃から俺は、海で親父と話す時間が好きだった。
反抗期の俺が家を飛び出したとき、行き着く先はいつもあの海だったから、親父はすぐに俺を見つけてくれた。そして、静かに話を聞いてくれた。
窓から入る波音に耳を澄ませていると、たくさんの思い出がよみがえる。
もし俺がいつかここを離れるときが来て、何処か遠い場所へ行ったとしても、この波音はずっと俺の心の中で俺に寄り添い続けてくれるのだろう。いつも親父がそうであったように。
そう思うと、この波音がより愛おしく思えた。
木々の間を、青い風が吹き抜けていく。
じわりと汗ばむ肌に当たって、ひんやりと心地良い。
この涼しさは都会のビル街では味わえない。避暑地ならではだ。
夏休みに入り、この別荘にやってきたのはほんの昨日のこと。
私はこの緑溢れる場所が好き。宿題が山積みでも、この場所で過ごせるから、夏休みは好きだ。
しゅーっとまた風が吹く。
夏の始まり。爽やかな緑の匂いがした。