風が運ぶもの 後日書きます
3歳年下の妹は、好奇心旺盛な子どもだった。母はよく、なぜ?なに?どうして?の質問攻めされていた。
「おねえちゃん、あのおはな、なんていうの?」
そんな妹が一番最初に私に向かって発した質問はそれだった。私が6歳の頃、2人で公園で遊んでいたときのことだったと思う。妹が、公園の花壇の一角を指差して言ったのだ。
当時、花が好きで両親に図鑑を買ってもらってよく読んでいた私は、その質問に「パンジーだよ」と即答した。妹は私の返答に目を輝かせて、花壇に咲いた別の種類の花や、木に咲いていた花を次々に指差して質問してきた。私はそれらすべてに答えてやった。そうしたら、妹はさらに目をキラッキラさせて、私に言った。
「おねえちゃん、おはなハカセみたいだね!」
『博士』と言われて良い気になった私は鼻高々に、
「お姉ちゃんは物知りなの。何でもききたまえ」
なんて言って、調子に乗った。
そこからが、大変だった。
妹は、物知りな姉に何でも訊いてくるようになったのだ。母が受けていた質問攻めのターゲットは、その日からすっかり私に移ってしまった。
花の名前なら問題なく答えられる。お父さんやお母さん、周りの大人たちが話していたことなら、何とか答えられる。でも、やっぱり、分からないことも多く……。
ただ、『物知り』になってしまった以上、「わからない」「知らない」は言いたくなかった。
苦手だった虫の名前も、図鑑を買ってもらって覚えた。難しいことを訊かれたときは、一度大人に意味を訊いて、それを妹でもわかるように私が説明した。わからないことがあるのが嫌だから、ニュース番組や新聞、図鑑、教科書、参考書、大人の会話等、あらゆるところにアンテナをはって、いろいろなことを覚えた。そうして努力して私は、妹のなぜ?なに?どうして?に完璧に答えた。
私にとって幸運だったのは、最初『物知り』を名乗る者としての義務感でやっていた調べ物も勉強も、やっていくうちにどんどん楽しくなっていったことだ。
『知ること』も『知っていることを教えること』もどんどん好きになっていって、妹の質問攻めもだんだんと苦じゃなくなっていった。
今では妹も中2になって、妹が家でわからないことがあった時に質問する相手は主にスマホになった。だけど、未だにたまに私に質問をしてくる時がある。私はその時間が好きだ。
私は私の知識を総動員して妹の質問に答える。すると、あの頃と変わらず、妹の目はキラキラと輝くのだ。
私は生涯『物知りな姉』でいたいと思う。
そのための努力も、楽しんで続けていくつもりだ。
過去を振り返ると、いつもがむしゃらに頑張ってきたな、と思う。他人よりできないことが多い私は、いつも周りに置いていかれないようにがむしゃらに走って、でも追いつけることはなくて。それでも、走ることはやめたくなくて、ここまで来た。気づけばずいぶん長い間走ってきた。時にはスピードを緩めたり、立ち止まって俯いたりすることもあったけれど、結局はまた顔を上げて走り出すのが私というやつだった。
今の私は、がむしゃらに走ってきた日々の積み重ねで出来てる。過去の私の頑張りが、今の私を作ってる。
そう思うと少しだけ、自分の人生が尊いもののように思えてきて、自分を大切に労ってあげたくなる。
他人よりどんなにできなくても、私は私で頑張ってきた。それを素直に素晴らしいことのように思える。
私は、これまでの私と約束したい。
何回立ち止まっても俯いても、必ずまた顔を上げて、何回でも走り出すこと。これからもずっと、がむしゃらな日々を積み重ねていくこと。
そうしたら、私は私を大切にして生きていけると思うから。
この約束は私の誇り。今日もまた、抱えてひとり、走っていくよ。
びゅうと風が吹き、ひらりと白いレジ袋が飛んでいく。
あのレジ袋はどこから来たんだろう。
持ち主は袋が飛んじゃったとき、どう思ったんだろう。どうでも良かったのかな。やっちゃったと焦ったのかな。
あのレジ袋は、どこまで行くんだろう。どっかに引っかかって早々に旅を終えるのかな。それとも、私の知らない、ずーっと遠くの町まで行けちゃったりするのかな。もしそうだったなら、ちょっと羨ましい気がするな。
青い空に浮かぶ雲より白く速く飛んでいくレジ袋を見て、ぼんやりと思う。
早春の午後。風は強く吹いている。
紺のブレザーの群れの中を行く白いセーラー服は、とても目立っていた。さらに目立つことに、その白いセーラー服の女子は綺麗な金髪で、青い目をしていた。
「え、誰かしら?」「転校生よね?」
「どこから来たのかしら?」「外国の人?」
「何年生?」「うちのクラスに来ないかしら」
彼女は朝からあちこちで噂になっていた。
うちのクラスも、ザワザワと彼女の噂で浮足立っていた。いや、うちのクラスは他よりいっそう騒がしかった。何故なら――
「ねえ、机と椅子が増えてるわよね?もしかして彼女、うちのクラスに来るんじゃないかしら」
――窓際の列の一番後ろに、机と椅子が1セット、増えていたからである。
そんな中、私はそのザワつく輪には入らず、隣にぽつんと増えた空き机を横目に、1人で1時間目の予習をしていた。私の人間関係は薄く浅くでやっている。新しく増えるクラスメイトにさして興味はなかった。
チャイムが鳴って、朝のホームルームの時間がやってきた。ガラリと扉を開けて、担任の教師が教室に入ってくる。
ザワザワと騒がしかった教室はソワソワとした空気を残しつつも一旦沈黙し、担任へ注目する。
「皆さん、おはようございます」
「おはようございます」
担任が言い、クラスが応える。ここまではいつものやりとりだ。
「突然ですが、皆さんにお知らせがあります」
担任が言うと、教室中がいっそう担任に注目し、その言葉に集中した。
「もう気づいてる人達も居るかもしれないけれど……うちのクラスに転校生が来ました。宇津見さん、入って」
担任が、自分が入ってきた扉の向こうへ声をかけた。扉がゆっくり開いて、今朝遠目に見かけたあの彼女が、姿を現した。
「やっぱり転校生だった!」「うわぁ、綺麗!」「セーラー服可愛い〜」
静かだった教室がまたザワついた。当の彼女は、そのザワつきは特に意に介さず、チョークを手に取り黒板に堂々たる文字で『宇津見奏絵』と書いた。そして、こちらへ向き直ると、
「ウツミカナエです。長野から来ました。母がアメリカ人で、この髪も目も自前です。父の仕事の都合でこの街に来ました。特技は剣道です。よろしくお願いします」
と自己紹介をした。無表情だった。その無表情が、とてもクールに見えて美しかった。
「皆さん、仲良くしてね。
宇津見さん、貴女の席はあそこよ」
担任が私の隣の空き机を指した。宇津見さんは静かに頷くと、スタスタと躊躇いのない足取りでやってきた。姿勢がよくて、歩く姿も美しい。静かに揺れ動く金糸の髪が輝いていた。
「あなた、名前は?」
気づいたら彼女は私の隣の席に座っていて、私の方を見て問いを投げかけていた。
私は、自分が彼女に見入っていたことにやっと気づいて、我に返った。新しいクラスメイトになんて、興味なかったはずなのに。
「袴田ゆう……です」
「袴田さんね。よろしく」
彼女が私の名前を復唱して、こちらにうっすら微笑んだ。それは本当に小さな笑みだったけれど、私の頬を熱くさせるのには充分な破壊力を持っていた。
「よ、よろしく」
私は自分の顔の熱さに混乱した。なんとか返事を捻り出したけれど、今自分がどんな表情をしているのか全くわからない。変な顔をしてないか、すごく心配だ。
宇津見さんはそれだけのやりとりで私から視線を外して、1時間目の準備をし始めてしまった。
私はその横顔を呆然と眺めながら、これまでと全く違う学校生活が始まる予感を、ひしひしと感じていた。