#静かな夜明け
ちょうどいいお題だから、久々に書いてみる。どうもずっと鬱々として、食事も睡眠も疎かにして体調を崩しておりました。昨日少し日差しが見えて、今日はのんびりと過ごせた。
鬱に入った原因が分からなかったけど、私はどうも限界が来るまでどんな事で傷ついたのか分からないらしい。限界になって涙が止まらなくなってから、あれやこれが苦しかった、悲しかった、ムカついたと分かる。これでもマシになった方で、昔は明けたと思える瞬間がなかった。
何気ない、悪意のない、私だって言われ慣れた言葉がトドメの一撃だった。傷つく方がおかしいくらい普通の、悪口でもないこと。それだけ限界だったんだろうけど。
久しぶりでまとまらない。けどとりあえず、ちゃんと寝て、起きて、ご飯食べて、好きなことして、すべき事もして、とにかく生きるために生活する。死んだって構いやしないけど、今死んだら理由がくだらないと笑われる。死してなお笑われるなんて御免。強く生きてやろうかな、って、今だから言える。
#透明な涙
高校生の時、部活の顧問との折り合いが悪くて、悪いというか本当に人の心が分からなくて、無意識なんだろうけどお気に入りのみを贔屓するような人だった。私はお気に入りじゃなくて、経験者なのに初心者と組んで大会に連れて行って貰えないこともあった。お陰で私はポッキリ心が折れて、本当に鬱だったと思う。なんでもない一言、「ここが弱いね」みたいな本当にただのアドバイスだったと思うけど、それに全否定されたように感じて大泣きしてしまったりした。私のせいもあったんだろうけど、部内の空気が本当にダメになっていった。
ある日、贔屓されてる同級生の子もしんどかったんだろうね。一緒に泣き出したことがあった。その子の泣き方が、すごくきれいだったの。『ポロポロ』って擬音がぴったりな、涙の粒を零すような泣き方。私が顔ぐしゃぐしゃにしてブス晒してんのに、その子はまるで天使みたいにキレイな顔でキレイに泣いてる。「あー、こんなキレイに泣ける人って存在するんだ。こんなにも違うものなのか」って変に関心して、変に比べて、変に落ち込んだ。
そんだけの話。けどずっと忘れられない。泣き方に人生が表れる気がして、泣き方のキレイなあの子の満たされた人生とか、幸せそうな今とか、羨ましかった。『これから先もどうか幸せでありますように』なんて嘘でも思えないくらい、羨ましくて妬ましかった。愚か者の話。
#あなたのもとへ
無事に卒論出せた~~~~~~~ッッッッ‼️‼️‼️‼️‼️とりあえず今は生きてます。本当に死ぬんじゃねぇかなって生活をしてました。みんなは先延ばしなんぞしないようにしてね···
さて、本題ね
私は、ずっと会いたい人たちがいます。曾祖母と飼ってたペットの犬。もう亡くなってしまったから、会おうと思うと死ぬしかない。けど自殺は地獄行き。天国にいるあの人らには会えないからする意味が無い。
会いたいけど、会う資格は無い。酷いことをした。今でも後悔してるし、合わせる顔がない。幼さのせいにするには、あまりにも酷すぎることをした。本当にごめんなさい。謝っても許さないで欲しいし、ずっとずっと責め続けて欲しい。そのくらい酷いこと。
会いたいけど、会えないし会う資格はない。許されたいとも思わない。けど、許されるように、生きろ。とあるドラマで印象に残ってるセリフ。生きてたくない世界で、いつだって罪の意識で苦しんで死んでしまいたいと思ってた私には、本当に刺さった。実際は許されたと思ってまた酷いことをしたくないから、許してほしくない。それでも。どうしても会いたい。
#未来への鍵
今。卒論を書いています。進みません。本当に。これを終わらせなければ私の将来は終わります。鍵もクソもありません。イーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッッッッッ
#星のかけら
抽象的だ~~~~このアプリあんまりエッセイ向きじゃないかもしれないね···
ひねり出すと、最近星野源さんが気になっております。紅白直前に曲を聴き出し、せっかくだから!と紅白もリアタイを決めました。しかし随分なゴタゴタが前後にありまして、なんだかなぁ···と言うのが最初です。一応事前に曲を調べ、聴いてみましたがあまり好みでないかも?という印象。正直『好き』だの『推し』だのと人前で、大きな声では言えないかな。
しかし実際、演奏して歌っているところをテレビで見ていて、目が離せなくなった。はっきりと言葉を歌い、こちらを見ている。カメラを見ているだけ。それなのに『目を逸らすな』と言われているような気持ちになって息を飲んで最後まで見ていた。そして沈黙と表情。それらで何となくどんな人なのか分かった気がして、根っからの表現者なのだなぁと感じました。
私にとって、『好き』や『推し』、『ファン』という言葉がすごく重い時がある。なんだか、『好き』ならライブに行ってグッズを買って感想をSNSで話し合うのが当然。『推し』なら出演してる作品、本、イベント、ラジオを全部見てて当たり前。『ファン』なら当然の事で、出来ないなら『ファン』じゃないよね、と言われている気がしてきてしまう。これは私が勝手にそう感じてるだけで、別に誰からも直接責められたことはない。けど、SNSを見てると、人と話してるとどうしてもできていない事を見つけて心が苦しくなる。何時ぞやも言った「不幸にピントを合わせてる」に近しい、なんなら同じかな。だから私が勝手に苦しんでるだけで、誰も悪くはない。けど素直に『好きだ』と言えなくなってしまった。『好き』というにはSNSもフォローしてないし、ファンクラブも入ってない、CDも持ってない。本当にファンの人らとの温度差でまたきっと苦しくなってしまうから友達も作れない。これ、私去年もずっと悩んで何度か泣いた。どれが正解なのか分からない。正解がないのかもしれない。無いならないで何が1番楽なのかくらい教えて欲しい。情報社会のくせにこういう欲しい情報は何一つ出てきやしない。『好きにしたらいい』。その好きがどの程度なら許されるのかを知りたいんだよ!!てか許されるってなんだよ!?
一生こうやってぐるぐるしてる。なんで私にとって『好き』や『推し』、『ファン』て言葉がこんなにも重いものになったのかから探っていくしかないのかもしれない。原点回帰だね~~~