君と出逢って
生きてきた中で、会えて良かったと何度か言ってきた。
だが、人間が苦手な私は、本心からその言葉を言ったことがあるのか、甚だ疑問である。
少なくとも、その場では本心であるから、嘘ではない。
その後の人生に関わる決断の、後押しをしてくれた人だっている。
ただ、久方ぶりに会うとなると、恐ろしく億劫で緊張するのである。
そして会った後は、どっと疲れる。
そのような経験を何度もすると、果たして私は友人を、他者を大事にできているか不安になる。
私は実に自己中心的な人間であるから、余計、である。
君と出逢って良かった、幸せだ、と胸を張って伝えられる日は、いつか来るだろうか。
それまでには、随分と「成長」を要するだろう、と思わざるを得ない今日この頃である。
耳を澄ますと
耳を澄ますと、風の音がする
山から風が吹きおりる音、海から陸に駆け上る音。
鳥の声、人の気配、船の警笛、電車の発車音を織り交ぜながら。
それが、家でも学校でも聞こえてくる。
いつかは、聞こえなくなるのだろうか。
そう思うと寂しくなる。
同時に、存外この土地が気に入っているのだと感じて、少々恥ずかしく思うのである。
どうやら自分は故郷から離れがたい人間のようだ、と。
せめて、居残り続けて「澱んだ」人間にはなりたくないものである。
ルール
集団が争いなく過ごすために必要なものである。
しかしながら画一のものを定めるには、骨がおれる。
権力を生み出し、場合によっては不平等も発生する。
ルールさえあれば、と思うことも多々あるが、実際のところ、そんなに万能でもないモノのひとつだと感じる。
たとえ間違いだったとしても
恐ろしく守りに入るタイプの人間がいる。
私である。
世の中は、挑戦 チャレンジ 失敗を恐れない勇気 といった言葉が転がり、賞賛する声が多い。
結構なことである。
しかし、現状維持を笑う声もある。
自分の生活を、プライドを、心を、守ることは否を突きつけられることだろうか。
「守り」の先に発展がなく、たとえ間違いだったとしても、それは「攻め」と異なる形で、前に向かっていると思うのである。
挑戦 チャレンジ 失敗を恐れない勇気
繰り返すが、結構なことである。
しかし殊更に、「攻め」の姿勢を称賛する声には、疑義を申し立てたい「守り」の私である。
結局は、バランス が大切なのではなかろうか。
何もいらない
なんて日は来るのだろうか。
いや、恐らく来ない。
人間は欲の塊、とはよく言ったものである。
生きている間は、腹は減るし眠くもなる。
全ての欲が消えるのは、きっと死んだときだ。