男は山で生まれた。男はマオリと名付けられた。
正確には山に囲まれた小さな村だ。
マオリの記憶の一番はじめの時から、山はそこにある。
大小さまざまな山があり、女たちは木の実や山菜を採り薪を集め、男たちは狩りをして動物の肉を村にもたらした。慎ましくはあったが、村での生活に必要なものに事欠くことはなかった。質素だが、美しい村だった。
ただ一番高い山には誰も近づくものはいない。
その山は、『聖なる山』で神や神獣が住むとされ、立ち入る者に死をもたらすと恐れられていた。
その男が成人したその日までは。
マオリは、小さな頃からずば抜けて丈夫な足をもち、身体も大きく勇気もあった。周りの大人は、彼は将来さぞかし立派な大人になるであろうと、褒めそやかした。
マオリは小さな頃から周りの大人が自分に何を求めているのかを理解していた。
そしてそのとおりに、時にはそれ以上に振る舞い、彼は自らの自尊心を十分に満たしたのだ。
しかしそのうち、男たちの賞賛も嫉妬も、女たちの熱い眼差しも彼にとっては、退屈な日常の延長線としか感じられなくなった。マオリは、自らの力を試したくて仕方がなかったのだ。
そしてそれは『聖なる山』に登ることを意味した。
成人となった翌日の朝、マオリは山へ向けて出発した。村は大騒ぎになるだろうが、そんな事はどうでもよい。騒ぎたいやつは騒がしておけばよいのだ。
山は薄気味悪いほどしんとしていた。
慣れ親しんだ動物たちは一匹も姿を見せず、かわりに見たこともない植物がこれ以上の侵入を拒むように生い茂っている。誰かがこっそりとこちらを見ているような気がした。(俺の勇気を試しているのだ)とマオリは思った。
後ろを振り返ってもすでにそこに道はなく、前に進むしかなかった。男は恐怖心や誘惑と闘いながら、時には大きな決断をし、自らを奮い立たせながらも、頂上を見失う事はなかった。
そして苦難の末、とうとう山頂に辿り着いた。
マオリは歓喜した。
『聖なる山』を征服したのだ。
山頂には霧がかかっていたが、下を見下ろすと蟻の巣穴ほど小さくなった村が見えた。
「あぁ、なんてちっぽけな村なんだ!あそこの連中ときたら俺の今見ている景色など、一生かかっても見ることなんか出来ないだろうよ」
マオリは手頃な平たい岩を見つけ、そこにごろんと寝転んだ。そして目を瞑って、自分がここまでやってきた仕事の価値を一つ一つ確かめて満足気にうなずいた。神でさえ俺を賞賛しているだろうよ。
マオリはさすがに疲れて、その場でうとうと眠りこんでしまった。
「おい!あんた、こんな所で眠ってちゃ危ないよ」
突然、人の声がしてマオリは飛び起きた。
「ここは夜になると凍りつくほど寒くなるんだ。あんた、見かけない顔だがどこから来たんだい?」
辺りはすっかり霧が晴れ、そこに村の入り口が現れた。
マオリが山頂だと思っていたところは、山の中腹にある村の入口の展望台だった。
とにかく村に入って身体を温めないと、という親切な村人の案内でその村の村長の小屋に行くことになった。
部屋に入り、一通り今までのいきさつを話すと、村長は驚いていたがやがて静かに言った。
「ここに下の村から来た人はこの村が始まって以来、一人もいない。あなたは大変勇気がある人だ。この先まだ上に行くつもりならこの村の人間を何人か共として連れて行ってほしい。この村の男たちにしても大変名誉なことだろうから」
マオリは当然のごとく、この話を受け入れた。
マオリは部下を引き連れ、旅を続けた。
さらに村を通るたびに部下の数は増え続け、今では数え切れないほどの人数になっていった。
だが、しばらくたったころから徐々に人数は減ってきた。
皆過酷な旅についてこられなくなっていた。病気や怪我で途中の村で旅を終える者が増えたのだ。
最後の一人になってもマオリは旅を諦める事はなかった。俺はまだ山頂に立っていないのだ。そこからこの世界全てを見下ろす日を、マオリは夢見続けた。
辺りはどんどん霧が深く立ち込め、一寸先も見えなくなってきた。足はがくがくし、空気は薄くなり、肺はぜいぜいと息苦しく音を立てた。
マオリは最後の力を振り絞って山頂の岩に手をかけた。
これが、私が夢見続けた『聖なる山』の頂だ!
マオリが顔を上げると、そこにあったのは懐かしい我が村であった。
「おい!マオリじゃないか!みんな、マオリが帰ってきたぞ!」
マオリは混乱してふらふらとしながら霧の中にいる村人に叫んだ。
「どういうことだ!おれは頂上を目指して上へ上へ登って来たんだ!なぜここにおれの村があるんだ!」
震える手を必死に抑えながら、マオリは杖を支えに立ち尽くした。
しばらくして村人をかき分けて、村長が現れた。
そして自分の娘に手鏡を持ってこさせた。マオリの肩にそっと手をかけてこう言った。
「マオリ、お前は上へ上へと登っていると思っていただろうが、実は途中から下に向かって歩いていたんだ。よく聞くがいい。あの山に頂上なんてものはないんだ。お前は自分が永遠に山を登れると思っていたのか?」
村長はマオリに手鏡を手渡した。そこには一人の老いさらばえた老人がうつっていた。目は白濁し、頬はこけ長い切れ切れになった白い髭が汚く張り付いていた。自慢の足は見る影もなくただの骨と皮になっていた。
「あぁ、哀れなマオリよ。山になんて登ろうと思ったお前が悪いのだ。村で暮らしていればお前程の男だ、今頃立派に家族も作り幸せになっていたものを」
「せめて余生は静かにくらすがいい」そう言い残して村長は去っていった。
マオリの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
なんということだ…おれはなんという愚かなことを。
マオリは失意の日々と穏やかな日々を交互に過ごし、一年後に静かに息を引き取った。
散歩するなら秋がいいですね
わたしより少し先を歩きながらタカタさんは言った。二人の足音だけがコツコツと細長く曲がりくねった石畳の路地裏に響いている。
「どうしてそう思うんですか」
「夏は暑すぎるし、冬は寒すぎます。春は気分が浮足だってしまってよく周りが見えないうちに終わってしまう。秋はいいですよ。落ち着いて景色がくっきりと見えるから」
「はあ、そうですか」
「そうですよ」
わかったようなわからないような事を言うのだ。この人は。
タカタさんは長年勤めた会社が突然倒産したのをきっかけに、こつこつ集めていた骨董品を売る仕事を始めた。
長年好きで集めてきたものを他人に売ってしまうのは、どんな気持ちなのだろうか。
そんなわたしの心配をよそに、タカタさんはどんどん品物を手放していった。数百円から数十万円、ときには数百万円するものまで。
「最近、ものごとがぼやけるんです。いや、視力が悪くなったとかそういう事ではなくて」
坂道が急になってきて、タカタさんは少しゆっくり歩き始め、わたしたちは横に並んだ。
「小さいころはもっと感覚がはっきりしていました。草木は目が痛くなるほど鮮やかな緑で、花は美しさを競い合っていた。物や出来事が私のすぐ近くにありました。ちょっと手を伸ばせば届くところに。でも歳を重ねるにつれて触れなくなってきたのです。まるで世界全体に薄いベールがかかったみたいに。そしてそれは年々厚くなっていく」
タカタさんがどこか遠くの世界の話しをしているように聞こえて、わたしは少し怖くなった。
だから品物を売ってしまおうと思ったんですか、そう聞きたかったが、結局聞けなかった。
路地を抜けると神社があったが、お参りにはいかなかった。帰りに土産物屋で店主のおばあさんが漬けた白菜漬けを買って帰った。
「わたしは漬物はしばらく置いて酸っぱくなったものを酒の肴にするのが好きなのです」
そう言ってタカタさんは白菜漬けのビニール袋を一つくれた。
タカタさんは本当に古いものが好きなのですね。
そうかもしれませんね。
タカタさんと散歩したのはそれが最後だった。
死んだと聞いた時、持っていた眼鏡を落として壊してしまった。
葬儀が終わると、親族の方から売れ残った品物は処分するので欲しいものがあれば、何でも持っていってくださいと言われた。
六畳の和室いっぱいに新聞紙が敷き詰められ、その上に所狭しと色々な品物が並べてあった。
古めかしい壺や茶碗、河童の焼き物、木彫の鯉、何に使うのかわからないような道具や薄気味悪い人形などが。
古いものの放つ独特の臭気が、その部屋に充満している。
わたしは気がつくと、涙を流していた。
タカタさんはもう、この目の前の物に本当に触ることが出来なくなったのだ。
そして溶けない雪が街に降り積もるのを想像した。
最初はうっすらと地面を覆いはじめた雪が、容赦なく降り続いていき、徐々に道も川も建物さえも、色も形もわからなくなっていく様を。
それでも雪は振り続ける。
街は遥か下に埋もれ、あたりは真っ白で平らな冷たい世界へと変わる。路地裏の散歩道も、あたたかい家も、古い記憶の詰まった骨董品も、すべてを呑み込んで。
そしてすべてのリアルさを失った世界を生きたタカタさんを想った。
足元を見ると、昔一緒に散歩したときにタカタさんが買い求めていたお猪口があった。
時々、お猪口を持ち出しては酒を飲む。
わたしも年を取れば、そのうち世界はとおくになってしまうのだろうか。
土物のざらりとした手触りを愛おしく想った。
朝日が登るころ、女は海にいた。
家の前はすぐに砂浜になっており、小さないすとポットを持って、サンダルのままサクサクと波打ち際まで歩いていく。
まっさらな生まれたての砂浜に、女のつけた足あとだけが刻まれている。なにかの秘密の暗号みたいに。
鳥たちの鳴き声が、朝の張りつめた空気の中に響きわたり、そのはるか上をゆうゆうと鳶が旋回している。
女はいすを置いて座り、熱いコーヒーをポットからカップに注いだ。少し肌寒い朝で、手をカップで温めながら上がってくる湯気を吸い込みつつ、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
朝日が徐々に辺りを照らし始める。
光が波に反射して輝き、薄く漂う雲は赤や紫、黄金色に照らされていた。
女の顔も身体も、東雲の空の色に染まっていた。砂浜や小さな蟹や石も、その空間すべてが。
女の内には闇があった。
それは女から女へと代々受け継がれ続けられた闇であった。
人は皆闇から出でてくるものであるが、この世に落ちた瞬間、光を受けると闇も闇として存在しはじめ、それを恐れはじめる。
だが、女の内にはそうした闇が生き続けた。子宮という混沌を抱えて。
生命の循環は、太古の時代から「母―娘」のつながりによって保たれてきたのだ。
だが、女はその闇を忌々しく思っていた。
自分もあの男のように闇なぞ、自らとは関係がないような顔をして生きていたかった。心底、闇を憎悪してみたかった。
しかしその男もまた、女の内の闇にひかれてくるのだ。
炎に群がる哀れな蛾のように。
女は闇を内に隠し、平気な顔をして生きている。
そして男を受け入れ、やさしく暗闇で包みこんでやった。
太陽はますます強く辺りを照らし始め、女はますます美しく輝いていた。
「親友とは、もしあなたが今しがた殺人を犯してきたと告白した時、黙って話しを聞いてくれる人のことである」となにかの本で読んだことがある。
親友と呼べる人に出会えるのは奇跡的なことだろう。
殺人までいかないとしても、世間一般で許されないことを告白して、黙ってそれを聞いてくれる人がいるのは、ずいぶん恵まれているのではないかと思う。
永遠とは どこにあるのだろう
西の空の 黄昏の向こう側に
屍の目の 奥底の深淵に
見えないDNAの 螺旋の続きに
それはあるのか
死は生のすぐ隣に在り、永遠を形作る
生のみの永遠はありえない
すべての生の選択は正しく、滞りなく死に向かう
無もまた滞りなく、有へと向かう
それが分かっていても、どこまでも青い空が続いてほしいと、わたしは願う
それがただの エゴだとしても