散歩するなら秋がいいですね
わたしより少し先を歩きながらタカタさんは言った。二人の足音だけがコツコツと細長く曲がりくねった石畳の路地裏に響いている。
「どうしてそう思うんですか」
「夏は暑すぎるし、冬は寒すぎます。春は気分が浮足だってしまってよく周りが見えないうちに終わってしまう。秋はいいですよ。落ち着いて景色がくっきりと見えるから」
「はあ、そうですか」
「そうですよ」
わかったようなわからないような事を言うのだ。この人は。
タカタさんは長年勤めた会社が突然倒産したのをきっかけに、こつこつ集めていた骨董品を売る仕事を始めた。
長年好きで集めてきたものを他人に売ってしまうのは、どんな気持ちなのだろうか。
そんなわたしの心配をよそに、タカタさんはどんどん品物を手放していった。数百円から数十万円、ときには数百万円するものまで。
「最近、ものごとがぼやけるんです。いや、視力が悪くなったとかそういう事ではなくて」
坂道が急になってきて、タカタさんは少しゆっくり歩き始め、わたしたちは横に並んだ。
「小さいころはもっと感覚がはっきりしていました。草木は目が痛くなるほど鮮やかな緑で、花は美しさを競い合っていた。物や出来事が私のすぐ近くにありました。ちょっと手を伸ばせば届くところに。でも歳を重ねるにつれて触れなくなってきたのです。まるで世界全体に薄いベールがかかったみたいに。そしてそれは年々厚くなっていく」
タカタさんがどこか遠くの世界の話しをしているように聞こえて、わたしは少し怖くなった。
だから品物を売ってしまおうと思ったんですか、そう聞きたかったが、結局聞けなかった。
路地を抜けると神社があったが、お参りにはいかなかった。帰りに土産物屋で店主のおばあさんが漬けた白菜漬けを買って帰った。
「わたしは漬物はしばらく置いて酸っぱくなったものを酒の肴にするのが好きなのです」
そう言ってタカタさんは白菜漬けのビニール袋を一つくれた。
タカタさんは本当に古いものが好きなのですね。
そうかもしれませんね。
タカタさんと散歩したのはそれが最後だった。
死んだと聞いた時、持っていた眼鏡を落として壊してしまった。
葬儀が終わると、親族の方から売れ残った品物は処分するので欲しいものがあれば、何でも持っていってくださいと言われた。
六畳の和室いっぱいに新聞紙が敷き詰められ、その上に所狭しと色々な品物が並べてあった。
古めかしい壺や茶碗、河童の焼き物、木彫の鯉、何に使うのかわからないような道具や薄気味悪い人形などが。
古いものの放つ独特の臭気が、その部屋に充満している。
わたしは気がつくと、涙を流していた。
タカタさんはもう、この目の前の物に本当に触ることが出来なくなったのだ。
そして溶けない雪が街に降り積もるのを想像した。
最初はうっすらと地面を覆いはじめた雪が、容赦なく降り続いていき、徐々に道も川も建物さえも、色も形もわからなくなっていく様を。
それでも雪は振り続ける。
街は遥か下に埋もれ、あたりは真っ白で平らな冷たい世界へと変わる。路地裏の散歩道も、あたたかい家も、古い記憶の詰まった骨董品も、すべてを呑み込んで。
そしてすべてのリアルさを失った世界を生きたタカタさんを想った。
足元を見ると、昔一緒に散歩したときにタカタさんが買い求めていたお猪口があった。
時々、お猪口を持ち出しては酒を飲む。
わたしも年を取れば、そのうち世界はとおくになってしまうのだろうか。
土物のざらりとした手触りを愛おしく想った。
10/31/2024, 6:15:42 AM