軽快な音と共に、LINEの通知が来た。
「LINE通話しないかって?」
べつにいいけど私は。
A君はいつも学校では、独りで本を読んでいる。
正直クラスの中では活発ではない、いわゆる消極的な部類区分される人だ。
要は俗にある人達が言う『陰キャ』だ。
私は別にそういういいかたはしたくない。
まあ、今心の中で思っているときは多めにみてほしい。
誰に言ってんだろ私。
とにかく私は、そういう風に言う人を好きにはなれない。異性だけではなく。全ての人に対して。
それはさておき、私は今夜A君とLINE通話することになった。
いいのか悪いのかは、分からない。
A君の人柄は悪くない。
イケメンではないけど、放課後の掃除のときはいつも私がチリトリやりたくないから、代わりにやってくれる。
あと、絵が上手い。私も自分の絵はそこそこ上手いとは思っているけど。
彼の絵は独特の雰囲気がある。なにであるかは分からないが。
「すみません」が彼の口癖。
口癖は人表す言うけど、彼の場合は本当に謝っている感じ。別に少し肩が当たったとか小さなことでも、深々と頭を下げるのだ。
まるで、どっかのサラリーマンのようだ。
で。
話を路線に戻そう。
今、A君がLINE通話の了解を私が待っている。
『……す、すみません。繋がらなくて』
「いきなり、すみません?」
『え、な、なんて言ったらいいですか』
「……別に。いつも通りだね。A君は」
私はなるべく可愛く喋る。
いつも少しぶりっ子めで喋る方が可愛いと思っていて、それが身に染み付いてしまった感じ。
『そ、そうですか。えーと、その、今回電話したは……いや、ここではない別の所で……やっぱりそっちのほうが……』
「言ってもごらん?」
『……わ、忘れちゃいました』
「ええ!?マジ」
『すみません』
「あーもう、いいから謝らなくていいから」
『……その、前に話したときに、22時くらいは暇だって言っていたので……電話した次第です』
「……で要件は?」
『やっぱり何でも無いです……』
「なにそれ〜。気になる〜」
『す、すみません。あ、声、綺麗ですね~……なんか話ありますか』
「……そ、そお。ありがとう。私は特に無いな〜……。じゃおやすみ、A君♡」
『……じゃあ、また明日』
私は通話終了ボタンを押す。
ふぅ、と小さいため息をついてスマホを机に置く。
なんだか今日疲れたなと思って、ベッドにダイブする。
仰向けになり前髪をポンポンしてから、A君の照れた顔を想像する。
私の声に魅了されたかな。
ニヤけた顔を枕に押し付けて私は眠りに落ちた。
読んで下さりありがとうございました!!
『届かぬ想い』
「いらない」
私は人生の中一番驚いた、と言っても過言ではないだろう。
私からのバレンタインのチョコを貰えるなんて、限られている。
なんせ私は陰キャだから友達も少ないし、心を許した相手でなければ絶対にだめだと、自分で決めている。いや、決めているのではなく、そうなってしまったのだというのが、正しい事実である。それに伴った私の性格も同様である。
そんな私のバレンタインの数少ない手作りチョコを断るとは。
「俺、お返しするの面倒だから」
あ、それわかる。
と思わずど賛同してしまう私。なんて素直なのと、自分を褒めてしまう私は嫌いではない。世の中では、ここ数年多くの若者の自殺死亡者統計では右肩上がりになっている。これは、インターネット社会に移行したことも要因の一つであろうが、自分を自分認識すること、また認めることができなくなっていることが挙げられるだろう。
日常生活送る中で、昔に比べて肉体的な疲労から、精神的ストレスへとシフトチェンジしたことで、より自分に負担がかかるようになってしまったのである。
一般的に言われていることは、身体の傷は治っても、心の傷は消えないということ。
だからよく自分を「すごい」「天才だ」と言っている人がいる傍から見ればナルシストで片付けられてしまうがこれはその人にとっては重要な自己存在理由であり、価値があるということである。
さて話を戻そう。
私は今、数少ない男の子の友人に対してチョコをあげようとしていた。
だが、すんなりと断られてしまった、という場面である。
断った理由は[お返しが面倒]。
やっぱりそこだ。
私はちなみに面倒臭くはない。
なぜなら友達少ないから。
お返しとして用意する量も少ないのだ。
だが、一般人は違う。義理を貰いすぎると、その文返さなくてはいけないという衝動に歳悩まされてしまう。しかも、皮肉なことに貰った量があげた量がよりも上回ってしまった場合なんて、考えただけで鳥肌が立つ。
この世の中置いて、全ての人間が平等に生きているわけではない。手に入るお金だってそうだ。
だから、人間はチョコ貰う場合、お返しをする代行案を考える、もしくはもらわないことを選択せざる得ない。
今回の場合は後者である。
しかし。
何事にも例外はある。
ゲームで言う隠しコマンド、切り札ってものだ。
私だって自分にのチョコは人にあげたい。
だから私はこう言った。
「お返ししなくてもいいから。受け取って欲しいの」
精一杯自分に顔が思う最高の笑顔でもう一度チャレンジする。
彼はどうするか。
「……わかった。貰ってやる」
やった、と喜ぶ反面彼の顔は笑っていないのが、気に食わないけど。
それでも受け取ってくれたことに感謝しないと。
「ありがとう、貰ってくれて」
私はすぐにお礼を言った。
素直だから。
素直って素晴らしいと、自分の行動を褒める。
だからかな。
チョコを貰った男の子は私の目の前で、チョコの入った紙袋を踏む潰した。
「お前、顔キモいくせに話しかけんなよ」
男の子の言葉は私に素直に届いた。
心の傷は治らない。
私の前から男の子は去って行った。
私は潰れた紙袋を拾ってその場をあとにした。
これは私の人生の一部でしかないことにを自覚したことで、自分を肯定した。
読んで下さりありがとうございました!
お題【神様へ】
この世の中に神はいるのだろうか。
例えば、雨が降るという現象を考えてみる。
雨は降ることは予想できるが、止めることはできない。
恋人と遊園地に遊びに行く日に雨が降ると、がっかりする。しかし、たまたま彼氏が折りたたみ傘を一本持って、二人で歩くとなるとわけが違う。
これは人間の勝手な思い込みに過ぎないと言っても過言ではないだろう。
おそらく、彼が傘を出してくれる前の彼女なら、せっかくのデートを邪魔されたと思い、天候をいや、神を恨むだろう。しかし後者の場合、彼と彼女の距離がグンと縮まる行動であり、彼女にとってプラスになることは間違いない。従ってこの[雨]という現象すなわち、神に感謝するのである。
こう考えると、自分がどうしようもできないようなことが、結果的に自分たちにとってプラスになるか、マイナスになるかで、神を恨むか、恨まないかが決まるということである。
では、最初の問いに戻ってみる。
この世の中に神はいるのだろうか。
さっきの考えからすると、実は私達にとって神がいるのか、いないかは関係ない。
結果がすべてだと言うことだ。
つまり人間は、欲望に忠実である。
しかし、人生というのは一瞬で終わるものではなく、先の例の続きは別れに発展していく可能性だってある。
その場合また、神に恨みを抱くのではないだろうか。
なんと紙の様にとってもいい迷惑である。
まるで手のひら返しをしているのに過ぎない。
さらにいえば、人間独りならいいものの、この人類は数多に存在し、輪廻転生を繰り返している。
むしろこう考えると、神様は器がものすごく大きさということになる。
これは、素直に尊敬する。
神様。
誰一人として、姿形を見たものはいない。
しかし、人類の歴史からその「存在」は明らかになっている。
現代人でも信じる人がいるほどに、その存在は根強いものであることは間違いない。
だが少し考えてみてほしい。
正月や、受験期、就職活動、その他の試験や資格習得時などに限って人間は神頼みをする。
いくら神様でも、天候のことだけで恨まれて、ましてやその手のひら返しに頼みごとまで聞いてくれるなんて、人が良すぎではないか
これは、個人的意見ではあるが、この自分の日常一時一時に感謝することが大切だと思う。もちろん天候や、自然現象、人間関係、環境などに。
第一、すべてのことは選択する自由は存在している。
ただし、決定するのは全て自分自身である。
責任は全て自分にあるということだ。
「神様」はただの自己を安心させることだけに過ぎない。
だからと言って、「神様」がいないということにはならない。
ここまで論じてきたが、自分に決定権があるということだ。
さて、あなたはどう考えるか。
この世の中に神はいるのだろうか。
むしろ神様自身にも聞いてみたい。
神様へ。
読んで下さりありがとうございました!