昔、母親に内緒で飼っていた子猫がいた。
学校の帰り、ダンボールに入れられてミャアミャア鳴いてた子猫。私が通りかかると、いっそう大きな声で鳴き出して、通り過ぎようとしたら小さな手でダンボールをカリカリ引っ掻き、さらにミャアミャア。
どうしても無視できなくて、私はなけなしのおこづかいをはたいてミルクを買った。
子猫は喜んでミルクを飲んでいた。すごくお腹が空いていたみたい。けれど、家じゃ飼えない。私にさえご飯をくれないお母さんが許してくれるはずがないから。だから、ダンボールのまま公園に連れて行って飼うことにした。
そこは、私が毎日時間を潰している場所。お母さんが家に男の人を呼ぶとき、私はいつもこの公園にいた。錆びたブランコに揺られながら、お母さんと手を繋いで帰る子供たちをぼんやりと眺めていた。
その間はいつもひとりだったけど、これからはこの子がいる。そう思うと少しだけ心が温かくなった。
次の日も、次の日も、子猫は私を待ってくれていた。膝に乗ってミャアミャア鳴いて、私の手をペロペロ舐めて、またミャアミャア鳴いて。
私が来るのをそれはもう、心から喜んでくれているみたいだった。
だけど、一緒に過ごし始めてから一週間が過ぎた頃、お母さんに見つかった。
おこづかいが底をつき、家のミルクをお皿に入れているところを見つかってしまったのだ。
子猫はあっさりと捨てられ、私はまたひとりぼっちになった。
公園に行っても、ミルクをねだる子猫はもういない。
膝の上で気持ちよさそうに眠るあの子には、もう会えない。
寂しかった。けど、あの子はどこかで幸せになってるんだって自分に言い聞かせた。私がいなくても、私の膝の上じゃなくても、あの子はどこかで幸せに暮らしているはずだって。
だけど、いまでも子猫を見ると確かめに行ってしまう。
あの公園は取り壊されてビルが立っているのに。あの子はもうこの世にいないかもしれないのに。
それでも、探してしまう。
あの小さな体をもう一度なでたかったから。
あのミャアミャア鳴く声を、この耳でもう一度聞きたかったから。
秋風に運ばれた紅葉が足元に舞い降り、私はふと足を止めた。
目の前に広がる紅葉の美しさに息をのむ。
忙しい日々に追われるうち、気付けば季節は秋へと移ろい変わっていた。もうあと一週間もすれば、辺り一面は赤一色に染まるだろう。
そんなことを考える余裕が出来たのは、重要なプロジェクトが終局を迎え、仕事とプライベートのバランスが上手く取れるようになってきたからだ。
そよそよと、風に揺れる紅葉の葉音が心地よく耳に響く。心が自然と穏やかになり、洗われていくようだった。日々の喧騒を忘れるように、私は軽く目を閉じる。
『なぁ、俺たちもう一緒にいる意味ないんじゃないか』
半年前、別れた彼の言葉が胸の中に甦る。学生の頃からの付き合いで、私のことを誰よりも理解してくれる唯一の存在だった。心のどこかで彼なら大丈夫だとうぬぼれ、忙しさにかまけて関係をおざなりにしてしまった自分。
今さら反省しても遅いけれど、あの時少しでも彼を思いやることができていたなら……
目を開けて、燃えるように赤い紅葉を見つめる。じっと眺めていると、ふいに枝から離れた葉が一枚、ひらひらと舞いながら私の肩にそっと乗った。小さな手の平よのうな紅葉。私はふふっと笑みをこぼし、肩へ指を伸ばした。けれど、指先に触れる前に紅葉は風にさらわれてしまう。くるくると踊りながら紅葉は運ばれ、誰かの足元に静かに降りた。
「久しぶりだな」
聞き覚えのある声が風に乗って、鼓膜に優しく届く。
「会いたかった」
その言葉にゆっくりと顔を上げる。目の前に、彼が微笑んでいた。半年ぶりに見る笑顔。
『会いたかった』その言葉に胸に熱いものが込み上げる。忙しい日々の中で失ってしまった大切な、大切なもの。今からでも取り戻せるだろうか。
私は意を決して、彼に向き合う。
「少し時間あるかな? 話したいことがあるの」
吹き抜ける秋風が、私の背中をそっと押してくれる。「ああ」と、あの頃と変わらぬ笑顔を向けた彼に、私の心臓は期待に張り裂けそうだった。
彼女が荷物をまとめている。
この家を出ていくそうだ。
付き合って5年。結婚して10年。
好きで好きで、おれから猛アタックして付き合った彼女。何度断られても諦めずにプロポーズして結婚した彼女。
大好きだった。
一生愛して守る。教会でそう誓ったのに、おれは今、その誓いを破るのだ。
彼女が荷物を手に取り、振り返る。
部屋に残されたおれたちの思い出。
写真の中の笑顔、幸せな瞬間。
かつて、この部屋に溢れていた温かな空気を物語っている。
「また会いましょう」
彼女が微笑んで囁く。
こんな時まで綺麗な彼女に涙が少しこぼれそうになる。
部屋は彼女の出発で寂しくなるだろう。
けれど、追いかける真似はもうしない。
「ああ、また会おう」
おれは一歩下がり、彼女の背中を見送る。
彼女が前へ進むように、おれも進む。
さあ、新しい章への旅立ちだ。
バイクで走るのが好きだった。
風を感じる。生きてる感じがする。
苦しかった肺が膨らみ、ようやく呼吸ができるようになる。
だから彼にもバイクに乗ってくれるようにせがんだ。優しい彼は「いいよ」と笑って免許を取ってくれた。何度も一緒にバイクで出かけた。彼の運転は安全で、穏やかで、少し物足りなかったけど、それでも良かった。
私のバイクを修理に出してる間、彼の後ろに乗せてもらった。
彼の運転は相変わらず安全だ。
街を出て山道に入る。
いつも私たちが走っている場所。
少しだけ、スリルが欲しかった。
「もっとスピード出して」
「だめだよ」
「だって、これじゃあ息ができない」
彼によく言っていた。
バイクに乗っている時だけ、呼吸が苦しくなくなると。優しい彼は「わかった」と言って、スピードを上げた。
「もっと」「もっと」
少しずつ彼はスピードを上げてくれる。
景色が変わる。呼吸ができる。
「もっと」
「これ以上はだめだよ」
困ったように彼がそう言った瞬間、生い茂った草むらから何かが飛び出してきた。何かはわからない。シルエットは小さな四足歩行の動物。狐か狸か、たぶん、そんなのだ。
彼は避けようとハンドルを切った。動物にはぶつからなかった。けれど、スピードが出過ぎて制御ができない。バイクはそのまま横転する。山道に投げ出される身体。音を立てて転がるバイク。全てがスローモーションだった。
うつ伏せに倒れた身体を起こす。
手も足も動く。起き上がって周りを見ると、動物の姿はなかった。……彼の姿も。
転がったバイクの先に崖がある。
まさか、彼はここから?
震える手でスマホを取り出し、救急隊を呼ぶ。
彼にも電話したけれど繋がらない。何度かけても繋がらない。ああ、ああ。神様。
私がスリルがを求めたばかりに彼が。
救急隊の手を振り切って、救助隊の背中を見つめる。
どうか助かってと願いながら。
一年後の自分がどうなっているか、なんて考えられない。
だって私はたった今、大切な人に別れを告げられたのだから。
何年も一緒に過ごしてきて、周りの友達からも「いつ結婚するの?」「結婚まで秒読みだね」なんて言われていたのに。
そんな彼に突然別れを告げられて……。
私は呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
『……ごめん』
たった一言そう告げて、部屋を出て行った彼。
一緒に暮らしていたこの部屋に、私だけを残して。
どうしてなんだろう。何がいけなかったの?
上手くいってると思ってたのは私だけだったの?
彼の洋服も、お気に入りだった本棚の中身も、歯ブラシも、お揃いのマグカップも、全部そのままなのに……彼はもうここにはいない。
香りだけ残して、どこかへ行ってしまった。
しばらくして、ピコン、とメッセージが届く。
彼が思い直してくれたんだろうか。
淡い期待を抱いて画面を見る。
『しばらく友達の家に泊まるから。荷物はまた取りに来る』