過ぎた日を想う。
人を想う。過去を想う。土地を想う。未来を想う。沢山の、心からの想いで、何か少しは変化があるのか。
私は考えていた。過去の失態と後悔、失った友と自分。全て自らの行いから派生した事柄だけども、思い出すのも辛く、教訓な日々。
僕は分かっていた。あの日のあの時間、あの人があんな事をしでかすことを。止められたかもしれない。でも、僕には無理だった。
過去への想いには必ず、興奮と後悔が紛れ込む。綺麗に形を隠しても、憎らしいほどに突き刺さってくる。色恋でもいい、学校生活でもいい、仕事でもいいが、まず間違いのない衝撃的な記憶だ。
幸せになりたい。でも、今すぐは手に入らないだろう。
だから、私は、過ぎた日を想う。
今からの未来より、過去の記憶の方が不変で確実だから。
面白みは無いが、安心が欲しいのだ。
これが過去への願い。
星座。
久しぶりに見上げた空は、まだ綺麗で輝いて見えた。心に幾ら靄がかかっていても、目に見える景色の感動には勝てないんだと知った。
僕の趣味は夜、窓を開けて外を見ることだ。窓からは民家や山、街頭と電柱に空が見える。基本的に静かなこの辺は、星々がより多く見える気がする。
夜に散歩をする。私一人だと少し怖いけど、音楽を聴きながら少し明るい道を通る。でもどうしても夜に浸りたくて、ふらっと迷い込んだ小道から見上げる星は、より鮮明に輝いていた。
感動とか、胸の熱くなる体験とか、胸を締め付けられるような恋だとか。そういう日々を最近はしていない。
それは悪いことでは無いし、つつがなく毎日をこなしているのなら、きっと幸せなのだ。
他人と比べて、星の数ほどある価値観と1つずつ天秤にかけるのは、とても難しいと分かっている。
星座はそんなにハッキリと見えないし、見えても分からない。けれど、興味はあるんだ。
まだ待てる。
ただ、隣のあなたが足りない。
たそがれ。
この短い人生の中で、考え事なんてつまらない悩みを抱いてる時間ってのは、どれだけを占めるのだろう。
私は追われている。仕事に家事に趣味に世間なんてモノに、常に追われて、追い越されて、嫌悪している。たった独りの暮らしでも、これだ。
君は毎日ベランダで外をみている。僕が仕事から帰ると、少し早めに終わったんだって微笑んで。何をしている訳でもなく、つっ立って見える。
必要なもの程、目に見えないと思う。
目に見えればそれを、認識して、吟味して、取り入れて、排斥して。やり様と持ち様があり、天秤に掛けることができる。
欲しいモノと我慢するモノ。
それが自分にとって不可欠でも、見えないとそりゃあお座なりにもなる。あたりまえだ。
あたりまえで、必然で、少し悲しい日常。
日に一度、時間を作ろう。
電気を消して、スマホを置いて、窓を開けてジッとする。妄想でもして、物想いにでもふけって、ただ淡々と遠くをみる。
とりあえず、ぼーっと。
ただ、ぼーっと、たそがれる。
きっと明日も。
毎日同じ時間を繰り返す様な、途方もない感覚に陥ることがある。きっと明日も続くって。
僕は知っている筈だった。当たり前の日常とか言う薄っぺくなんの根拠もない希望は、足を掬うって。引っ張るって。
私は分からなかった。まいにち毎日繰り返される虚無と、不達成感。こんな、何の力も能力もない妄想に囚われることが、如何に可哀想なのか。
風呂場でふと手をあげる。そうするとお湯が揺れ、水面張力とかいう科学的な話を思い出す。音楽も動画も、人も騒音も、限りなく取っ払って、お湯に耳まで浸かってしまえば、涙は自然と出るのだ。
泣けない訳では無い。感情が、少しずつ欠如していく様な恐怖と、不安に、負けそうになる自分に言いたい。大丈夫だと。
きっと明日は、この調子なら来る。突拍子もない神様のイタズラで、明日死んでしまえば、もう考えなくていい。
だから、恐れずいられる。
きっと明日も、自分で生きる。
静寂に包まれた部屋。
ただ、畳張りだとかフローリングだとかダンボールだとか。気にも止めない床から天井を、ダラダラと眺める一日が好きだ。
窓の外の音と、テレビの音。私が感傷に浸るために必要な素材は、どちらだろうか。常に音を出し、威嚇するようにも見える姿は、何故だかとても滑稽だった。
僕のベットに入り込む子犬は、無邪気で無垢で無頓着だった。包んで閉ざして囲おうとしても、拒絶を示すその声に、そろそろ嫌気が差してきた。
静寂を求めているんだと思う。あまりに煩くて、喧騒の中では決して安心できないから。
戦争だとか、紛争だとか、殺人だとか、発砲だとか。窃盗だとか、放火だとか、地震だとか、氾濫だとか。関わらなければ気にもしない喧騒に、ふと触れてしまった場合、自分はどうしたら良いのだろう。
壊れていたくはない。
守られていたい。
そう思う自分に、幸よあれ。