あじさい。
私は食べるのが好きだ。風邪をひいた時も、怪我をした時も、1人の時も、2人の時も、休みの日も、仕事の日だって変わらず、好きなものを食べる。運のいい事に、好き嫌いも無く、料理も好きなので、苦もなく毎日を過ごせている。
でも、こんな僕でも、時々、気分が沈む時がある。それは、雨とか梅雨とかいう厄介な気候の時だ。何かと体が重いのは良いが、頭痛がする度に気分が悪くなる。だから、食欲なんてものも下がってしまう。これは私にとって不名誉この上ない日々だった。
だから、雨とか梅雨とかいう季節はあまり好きでは無い。唯一好きなのは、綺麗な藤や紫陽花かもと思う。
それでも、そうだとしても、やはり憂鬱なこの頃が好きにはなれないだろう。なあ、味のしないこの日々よ。色の薄いこの日々達よ。
好き嫌い。
好きと嫌いの元は多分、ただの感情だ。
そんなの、当たり前だけど、私にとっては大問題だった。誰かに向ける感情に、好きと嫌いを向けるのは不公平にも思う。だって、その人にとってはあまりにも分かりにくいモノだから。
僕がその人を嗅ぎ分けるのは、不信感だとか、清潔さだとか、清廉さだとか、容量の良さだとか、自分にとって不都合だったり不満だったりの要素が強い。だから余計に、あなたには関係なかったりする。でも、私から見た君にはもう、張り紙のように貼られた悪意や好意が溢れかえり、顔も見えなくなっている。
君の、あなたの顔が好きだ。だってまだ、薄らと、
見えるから。その顔が見えなくなるまで、一緒にいて欲しい。
街。
街を歩く。そこに何があろうとも。
私はよく簡単な詩を浮かべて、余韻に浸る。それが楽しいのか、悲しいのか、時々そうしたくなる。
都会でも田舎でも、1人でも2人でも、子供でも大人でも、普通でも歪でも、僕たちはいつも生きている。記憶があるということは、死んでいないということだから。だからたとえ、街に溶け込めなくてもそこで生きていくしかないと思う。
仕事であの町を離れた。あの村は遊ぶには狭い。旅行であの里へ行こう。そうやってあなたは街と街を行き来する。今、私の暮らすこの街は、きっと都会だと思う。だから人の出入りも多い。だから、自分の街だって感覚が薄いのかもしれない。でも、そんな少しの感情でも、浸れるくらいには魅力がある。
散歩は良い。そこで生きている気がするから。
岐路。
たくさんある。そう思った。
私は今まで沢山の岐路に立ったと思う。あの、文化祭の日の勇気や、友達への失言、雨の日にひた走ったあの焦り、進学就職への挑戦、怠惰の日々。そんな工程を経て、私は成り立っている。だからこそ、沢山後悔をしている。あんなことを言わなければ、しなければ、考えなければ、思わなければ良かったと、そうすればこんな後悔や結果はなかったのでは無いかと。そうすれば、普通に生きていたのではないかと。
僕があなたに言ったことは消えない。私が君にやったことは消せない。後悔してももう遅い。取り戻せない。そうやってどんどん沼に嵌り、浸かり、もがく程抜けなくなっていく。
そしてまたどうしたって、岐路を迎える。次はどんな後悔が生まれるだろう。そう焦り、頭を綴じる。
世界の終わりにキミと。
あなたと、今まで生きてきてよかった。と、言えるような相手が欲しいとは思う。
この頃、満たされない事が多くなった気がする。昔は近所を駆け回ったり、車で出かけたり、少し気になる人と話したり。それだけで満足した一日と思えていた。だけど、今は望むものが多くなったのか、少なくなったのか、大きくなったのか、諦めたのかは疑問だが、達成感やら瞳孔が光る感覚が無い。そしてふと、このままで良いのかと思う。そんなむず痒い日々だ。
世界が終わるなんて突飛な話題にも乗れる程、僕は疲れているのだろうか。私は、悩んでいるのだろうか。分からない事、感じれない事、求めれない事が増え、呆ける時間も比例する。そんな中でも、キミとならと思えるような相手は、都合よく現れないだろうか。
きっとたぶん絶対に、都合よくなんて、世界は終わらないのだろう。