幼い子供が、赤ん坊が、病にかかっても負けじとそれに打ち勝とうと奮闘する姿を目の当たりにする度に、私はその小さな命に宿る生命力の強さに感銘を受ける。
いつかはそんな小さな命であった私たちだが、大人になるにつれて、辛い現実を突きつけられるほど、生命力がすり減っていく気がする。
けれど、こうして私たちがここまで生きてこれたのも、あのか弱い小さな命が生きることを望み、諦めなかったからだから、私たちはその命を、どんなことがあろうとも、守り抜かなければいけない。
„I love you”―海外でよく聞く直球な愛の伝え方にも興奮するが、「月が綺麗ですね」という遠回しな伝え方にもまた、静けさの中に燃えるような情熱が潜んでいるようで、乙女心がくすぐられる。
太陽のように優しく辺りを照らし、周りに幸せをもたらす存在。そんな存在になれるか分からないけど、少しでも近づくことが、多分私にとっての人生における目標かな。
「0から何かを始める」のは、新たな冒険に足を踏み入れるみたいでわくわくする。「0から何かをやり直す」のには、沢山努力して積み上げてきたものをもう一度組み立てなければならないという、非常に苦い思い出が蘇る。
プラスにもマイナスにもとれる0だが、自分にその値を無限大に増やせるという希望が0という数字には詰まっている。
誰とも比べず、自分を基準にした0。自分たちの前にはただ真っ白な紙しかなくて、自分たちはそれを其々の色に染め上げていくんだ。だから0という数字には怯えなくていい。
誰かが辛い思いをしていたら、私たちはきっと「可哀想に。大変だったね。」と言うだろう。純粋にそう思っているし、実際社会における自分の立場においてもそうした方がいいから。人間はとても感情が豊かな生き物で、こうして人の喜びや悲しみを分かち合うことができる。
しかしその同情も結局上っ面でしかない。
「じゃあどうすればいいんだよ。神様なんかじゃあるまいし、何ができるっていうんだよ。」ー そう。どうすることも出来ない。いや、どうもしないのだ。私たちはどうもしないという選択をするのだ。
私たちは責任をとりたくないから、可哀想だけど何かをする勇気も時間も、労力もないから、同情で済ます。
だからこそ同情は本当に無責任なのだ。
私たちは、同じ人間として、同じ感情を持てる人間として、その感情を抱くだけでなく、そこから何ができるか一緒に考えるべきだと思う。
もし身近な人が苦しい思いをしているのなら、支えになること。もし世界で人が苦しんでいるのであれば、それを視野にいれて自分を見つめ直し、行動すること。
自分に何故同情という感情が湧いたのか。それを考えなければならない。それはきっと彼らの立場にいたら同じ嫌な思いをするからだ。ではその立場にいたら私たちは何を望むだろうか。何をしてもらいたいだろうか。
同情は人間の感受性の豊かさと苦悩を分かち合える優しさを表すとともに、人間の自己中心的な側面をも表す、二面性を持つ非常に考え深い言葉だと、私は捉えている。