誰かが辛い思いをしていたら、私たちはきっと「可哀想に。大変だったね。」と言うだろう。純粋にそう思っているし、実際社会における自分の立場においてもそうした方がいいから。人間はとても感情が豊かな生き物で、こうして人の喜びや悲しみを分かち合うことができる。
しかしその同情も結局上っ面でしかない。
「じゃあどうすればいいんだよ。神様なんかじゃあるまいし、何ができるっていうんだよ。」ー そう。どうすることも出来ない。いや、どうもしないのだ。私たちはどうもしないという選択をするのだ。
私たちは責任をとりたくないから、可哀想だけど何かをする勇気も時間も、労力もないから、同情で済ます。
だからこそ同情は本当に無責任なのだ。
私たちは、同じ人間として、同じ感情を持てる人間として、その感情を抱くだけでなく、そこから何ができるか一緒に考えるべきだと思う。
もし身近な人が苦しい思いをしているのなら、支えになること。もし世界で人が苦しんでいるのであれば、それを視野にいれて自分を見つめ直し、行動すること。
自分に何故同情という感情が湧いたのか。それを考えなければならない。それはきっと彼らの立場にいたら同じ嫌な思いをするからだ。ではその立場にいたら私たちは何を望むだろうか。何をしてもらいたいだろうか。
同情は人間の感受性の豊かさと苦悩を分かち合える優しさを表すとともに、人間の自己中心的な側面をも表す、二面性を持つ非常に考え深い言葉だと、私は捉えている。
2/20/2024, 10:31:31 PM