密かに作り上げる標本には不思議な満足感がある。自分だけの、唯一無二の標本。それは自分の人格そのものとも言える。私の秘密の標本?それは秘密なんだから教えるわけにはいかないが、そちらも赤の他人の標本に対して然程興味はなかろう。
私はお腹が空くととても機嫌が悪くなる。眠気と戦う朝は特に。凍える朝なら尚更だ。そんな時は、ご機嫌斜めの自分をどうにか宥めなければならず、まあ、一苦労だ。
軽い朝食を済ませてもお腹は満たされず、段々と自分の中の"好き放題お嬢"の機嫌が曇っていく。
― お嬢様は何をご所望ですか。
(何ゆえ自分に対してかしこまらなければならないのだ。まったく。)
― パンをご用意致しましょうか。ああ、ダイエット中でパンはお控えなさっていましたか。それはそれは、配慮が足らず、申し訳ございません。
― それでは蜂蜜ホットミルクなんていかがでしょう。季節の変わり目は体調を崩しやすいですし、蜂蜜には風邪の予防効果がありますよ。はあ、それはおやつに。かしこまりました。
― コーヒ・・ 気分ではない、、でも飲み物でも構わないと、、
― でしたら最近仕入れたばかりの紅茶もございますよ。チベット地方の花と果物を取り入れた甘い香りの紅茶でございます。いかがなさいましょう。
苦肉の策で、恐る恐る、尋ねてみる。
「それが良いわ!」ー さっきの機嫌は一体なんだったのかとツッコミたくなるくらい、気分はルンルンだ。
やれやれ。
LaLaLa GoodBye ー 歌って別れるなんて、一体どんな状況なのだろう。歌劇の役者もこんな別れ方はしないのでは。
別れは大体の場合は寂しいものだと思う。大事な相手だったからこそ別れが印象に残る。
だからこの台詞はどこか能天気な感じがする。
もしかすると、毎日をだらだら過ごす私は、その日その日とこんな感じでお別れをしているのかもしれない。
なんか嫌だな。
今日飲んだ紅茶の包装の裏に「山頂に着いても登り続けなければならない」という中国の古い格言らしきものが書かれていた。
一体どこまでなんだろう。ふと考えてしまった。どこまでもと言われてしまうと、鍛練には終わりがないということを突きつけられるようで、やる気よりも先に疑問や雑念が湧いてしまう。
結局、目標を達成するのは基本中の基本で、想像もしない何かを見つけるために高みを目指し続けるということこそが本当の強さなのかもしれない。その次元にいる人たちは、やっていることややろうとしていることに疑問すら抱かないのだろう。
そう色々と考えてしまった今、その基本すらも満足に達成できない自分の未熟さが恥ずかしくなってしまう。
でもなんだか、目標のその先を見据えると、限界が遠ざかって目標のハードルが低くなる気がする。
今日、私は自分にとってとても大切な人とお別れをしました。引っ越すそうです。突然の知らせだったのでとても困惑しました。泣きたい気持ちで一杯なはずなのに、表情が思うように動かず、言葉もつっかえて出てきませんでした。
家に帰って、空いてしまった何かを満たそうと、好きなことをしたり、甘いお菓子を食べたり、ココアを飲んだりして気を紛らわせようとしましたが、全く効果がありませんでした。これがやるせなさなのでしょうね。あまり経験していない感情なので、対処法が思い付きません。
今思うと、その人に出会ったのは本当に偶然と偶然が重なってのことでした。でも、人間関係は大体そういうもので、だから一期一会と言うのでしょう。というものの、感情の整理ができれば一期一会は納得のいく言葉ですが、それまでは耳にするのも辛い言葉です。
私のこの先の人生には沢山の出会いが待っていて、自分の人生と他人の人生が交わる、無数の未知の交差点があるかと思います。そのどれかでまたお会いして、お話ししたいです。
出会って約6年、終わりのないものなんてないということを、改めて、思い知りました。