誰かが辛い思いをしていたら、私たちはきっと「可哀想に。大変だったね。」と言うだろう。純粋にそう思っているし、実際社会における自分の立場においてもそうした方がいいから。人間はとても感情が豊かな生き物で、こうして人の喜びや悲しみを分かち合うことができる。
しかしその同情も結局上っ面でしかない。
「じゃあどうすればいいんだよ。神様なんかじゃあるまいし、何ができるっていうんだよ。」ー そう。どうすることも出来ない。いや、どうもしないのだ。私たちはどうもしないという選択をするのだ。
私たちは責任をとりたくないから、可哀想だけど何かをする勇気も時間も、労力もないから、同情で済ます。
だからこそ同情は本当に無責任なのだ。
私たちは、同じ人間として、同じ感情を持てる人間として、その感情を抱くだけでなく、そこから何ができるか一緒に考えるべきだと思う。
もし身近な人が苦しい思いをしているのなら、支えになること。もし世界で人が苦しんでいるのであれば、それを視野にいれて自分を見つめ直し、行動すること。
自分に何故同情という感情が湧いたのか。それを考えなければならない。それはきっと彼らの立場にいたら同じ嫌な思いをするからだ。ではその立場にいたら私たちは何を望むだろうか。何をしてもらいたいだろうか。
同情は人間の感受性の豊かさと苦悩を分かち合える優しさを表すとともに、人間の自己中心的な側面をも表す、二面性を持つ非常に考え深い言葉だと、私は捉えている。
夏の後に続くからなのだろうか。秋は冬よりも寂しく感じる。
冷たい風が吹きつけ、日も短くなり、紅葉の綺麗な時期も終わって、暖かな彩りをしていた木葉が次第に色褪せるのを見ると、なんとも切ない気持ちになる。
でも、それでもこの季節が愛おしいのは、枯葉に自然の美しさが詰まっているからなのだろう。枯葉のカサカサと風でなびく音や、落ち葉を踏んだ時のパリパリと鳴る音、雨で湿った枯葉の匂い。辺りを赤茶いろに染める枯葉の絨毯とカーテン。ゆらゆらと、優雅に落ちていく枯葉の様子。
秋が招く静けさは、こうして自然に目を向けさせてくれる。
時は23時59分ーそして時計の針はもう一分時を刻み、私たちは新たな一日を迎える。その瞬間を待ち望んでいた者もいるだろうし、手放したくなくてひしと時間にしがみついていた者もいるだろう。或いは時という概念を忘れて、ただただ何かに没頭し、気付けば次の日を迎えた者もいるだろう。
しかし、時というものは残酷で、誰の欲求にも答えてはくれない。耳を傾けてくれさえしない。私たちはただ、私たちが生きた今日に「さよなら」を言うことしか出来ないのだ。時には惜しんで。時には清々した気持ちで。
けれど、世の中でしっかり毎日にお別れを告げることが出来ている人は極少数だ。私たちはただただ明日へと進んでいくばかりで、今日は私たちの背中を見続け、取り残されて、次第に過去へと呑まれていく。それでは、今日と、その今日を生きた私たちが可哀想ではないか。何故なら、今日を生ききれたのは当たり前などではないからだ。
私たちはいづれ今日に最後のお別れが言えない日を迎えてしまう。私たちはあとどれくらい今日にお別れが言えるかどうか分からない。あの時ちゃんと「いってらっしゃい」を言えていれば、あの時ちゃんと「ありがとう」を言えていればーそんな風に亡き人との会話を悔やむ様子はドラマや小説で良く描かれているではないか。私たちは今日に、今日を生きれたことに感謝をしなければいけないから、「さよなら」を言わなくてはならないのだ。
その意識をもって毎日と向き合えば、きっと私たちの未来は明るい。
どんなに辛いことがあっても必ず安らぎをもたらしてくれるのは、各々の持つ「お気に入り」だろう。
そして、心の支えになるのは、その「お気に入り」の存在ではなく、そのものを気に入った私たちの気持ちこそだ。だから「お気に入り」は物でも人でも空間でもいいし、そのものが遠ざかってしまったとしても、そのものが消えてなくなってしまったとしても、それに対する気持ちが存在したということこそが私たちの生きる原動力となるのだと思う。何故ならそのお気に入りに注いだ情熱は生き続け、私たちの糧となるからだ。
自分にとってのお気に入りを作るということは、自分自身を大事にするということだ。お気に入りは人に輝きを与える。光って見える者は皆、お気に入りを持つだけでなく、大切にしている。常日頃そのお気に入りのことを考えていることだろう。だからこそ、その「お気に入り」への思い入れは大切にしなくてはならない。
「誰よりも」と呟く人はきっととても寂しがり屋なんだろうな。知らない、見たことも会ったこともない人と自身を比べているというよりかは、見えない彼らと会話を試みているようだ。