全身が脱力していく、視界がぼやけて端から暗い闇に沈んで行く。もう痛みも温もりも感じないのに、最期に微笑みかける事も出来なかった。
__嗚呼、俺が居なくなってしまったら。彼の頬は誰が拭ってくれるのだろうか。
『喪失感』
カチッ。少しの風にさえ掻き消されてしまいそうな金属音がすると同時に、私はステンレス製の灰皿をスっと押す。
朝焼けの淡い光に彼の整った輪郭がぼんやり受かんでいるのをぼおっと眺めるけれど、彼と私の視線が交差することは決して無い。
__ねえ。もう終わりにしましょ。
朝霧の様な煙たい部屋で、いつも私は彼に言う。
空になり散乱しているセブンスターの箱、会う度に異なる他の女の甘ったるい香水の香り、乱暴な癖に時折魅せるほんの少しの優しさ、蜂蜜みたいなドロドロの甘ったるい声。
私の言葉に彼は決まって蕾が震えるように柔らかく微笑んで私を抱き締める。
嗚呼、また駄目。私はまだ彼の思い通りの傀儡のままにしかなれない。
世界にたった一人、君だけだよなんて、私の琴線に触れるような事言わないで。
『世界に一つだけ』
両腕を胸の前で強く抱き締める。そこに貴方はいないのに。
『胸の鼓動』
📍
黄昏時の紫色の空の下、私はオンボロアパートのベランダの柵に肘をついて外を眺める。面白みの無い二車線道路を通る自動車や人々。その中に上機嫌にスキップをした一人の少女がいた。
その姿は宛らスポットライトさえ当たらない真っ暗な舞台で、足を軽やかに動かし孤独に踊る若い演者のよう。
私は少女からふいっと目を逸らし、薄ら暗い天に紫煙を蒸かすばかり。
『踊るように』
毎年、冬の終末に私は夢を見る。幼い頃の記憶だ。
厚い雪化粧をした田圃や山の木々達。花と耳を赤くしてはしゃぐ子供達。私もその一人。雪だるまを作るべく小さな雪玉を転がしていた。石や砂利、砂の混じった歪な雪玉をせっせ、せっせと両手で押したり、時には雪を掬って手でくっつけたり。
ポケットに手を入れて歩けば先生に叱られ、走っては転び、降る雪に舌を突き出して舐める。本当、馬鹿な事をやった。
夢から覚めれば、カーテンの隙間から差す光を睨みながら、それを全開にする。
叢雲が流れ、鶯が囀り、春の刻を告げていた。
『時を告げる』