その日記を受け取ったのは、ある冬の年明けだった。
書くように言ったのは、私だった。
日記は宿題だったのだ。冬休みの。
あの年の冬はとびきり寒かった。
確か1月の、まだ新しい年が来たばっかりのぴかぴかの週がやけに寒くて、週末には何年かぶりの猛吹雪があって、大変だったのだ。
あの子を受け持った年は、そんな冬だった。
とりたてて良い子ではなかったような気がする。
とりたてて問題児というわけでもなかった。
ある意味模範的で、おとなしくて、静かで、一緒にいる友達さえ、時々いることを忘れてしまうような、そんな子だった。
教師にも同級生にも、そこにいる、以上では認識されない。しかし、ありふれていて、どのクラスにもいる、そんな子。
宿題を忘れることも、居残りをすることもない。
かといって、勉強ができるとか、しっかりしているとか、そんなことはない。
本人はきっと一生懸命に生きているように思えるのに、なんだかどこか淡々と生きていて、だから私たちも淡々とした印象を受けて、淡々と存在を受け入れる。
生きるのに欠かせないのに、普段は存在どころかその美味しさすら認識させない水のような子だった。
日記みたいなプライバシーに関わる宿題は、学校から必ず返却する。
点数をつけた翌日とか、コメントを書き添えた翌日とか、あるいは学期末とか、学年末とか、そんなタイミングで返すのだ。
しかし、私はあの子の日記だけは返せなかった。
返せなかったのだ。
冬休み明け、冬休みの宿題を提出した次の日に、あの子とあの子の家族は、忽然と姿を消した。
家も、歯ブラシコップも、持って帰らすのを忘れたノートも、何もかもそのままにして。
夜逃げだという話だった。
突然のことだった。
当時、冬休みの宿題の日記は、クラスの半分までしか読めていなかった。
あの子の日記は、まだ開いてもいなかった。
あれからかなりの時日が経った。
私はまだ、あの子が提出していった日記を、読めていない。
処分すらできない。開けてすらいない。
何かの儀式か呪いかのように、もうすっかり古さを感じるようになったこの日記帳を、私は未だ手放せずにいる。
閉ざされた日記は、いつも私の机の、鍵のかかる引き出しにしまわれている。
星に包まれて
今日もニュースは、評論まがいの愚痴を垂れ流していた。
コメンテーターだか批評家だかが、まじめ腐った顔をして、したり顔で、やたら学術的にこねくり回した否定的な意見を述べ、それに対して別の専門家か何かが、もっともらしい専門用語で反論する。
街頭インタビューでは、やけに元気いっぱいの大学生が、外面を取り繕って、何も知りもしないくせに、背伸びをしたようなまじめに見える意見をマイクへ訴え、さっきまで隣人の悪口で盛り上がっていたように見える中年の主婦のグループが、全市民の代表みたいな顔で、インタビューに答えている。
テレビに映るそれらを、ぼんやりと眺めた。
今日のニュース、と見出し語が一覧で並べ立てられる。
殺人事件、芸能人のスキャンダル、税金、虐待、新たに生まれた条例、節約術、今月のトレンド、猥褻事件、動物の赤ちゃんの誕生、株価、地球温暖化、インフルエンザの流行情報、外交、豆知識…
醜崇低高入り乱れた情報が、当たり前のようにいっぺんに吐き出される。
頭が鈍く痛んで、手に持っていたスマホの電源を切る。
画面を伏せて、傍に置く。
テレビニュースはやかましく、熱心に、この世界の不条理と、欠点と、危機を訴えている。
これまでの間違いを論い、これからの間違いを危惧している。
そんなに言わなくたって分かっているのに、と思う。
今が絶望的なのも、未来に課題が山積みなのも、人間が愚かなのも、僕の人生が全部間違っているのも、もう自明の理と言えるほどに十分に分かっているのに。
スマホを置いて、顔を上げる。
テレビのリモコンが手に届くところにあったので、電源を切る。
“テレビのニュースが不愉快だから”ではなくて、“リモコンが手に届くところにあったから”テレビの電源を切る僕はやっぱりいろいろ終わっている。
時刻はもう23時を回っている。
明日はすぐそこまできている。
しかし、眠くはない。
すっかり昼夜逆転してしまった僕の体は、夜の闇に眠気を感じない。
静かになったリビングで、窓を眺める。
ひび割れがガムテープで補強された、大きさだけが大きい窓から、夜の空が見える。
街灯に光負けした弱々しい星が、人間失格の僕と、そんな出来損ないに住まわれた味気ないアパートの一室を包んでいる。
眠気はないが、目を開けて現実を見るのもだるかった。
僕は椅子に座り直して、目を閉じた。
そっと。
そして、僕の人生の終結を祈った。
それは、静かな終わりだった。
静かな終わりを期待する、僕のたった一つの儀式だった。
生活感のない、清潔すぎる僕の部屋は、いつもに増して静かだった。
僕は終わっていた。
僕の部屋も終わっていた。
静かな終わりが横たわっていた。
「なぞなぞだ
不思議な鏡、これなんだ?
普通の鏡、真っ白に
目の前の鏡、真っ直ぐ見ても
斜めに見ても、タネなし真っ白
普通に写って、見えていたのに
その時が来たら、みるみる白く
後ろの椅子も、後ろの壁も、
お風呂のバスタブ、洗面台も
君の顔も、たちまち白く
鏡に写っていたから真っ白
鏡で見ると、すっかり真っ白
まるで、人呼んで、凍てつく鏡
シャワーを浴びてただけなのに
顔を洗っていただけなのに
お湯を出していただけなのに
真冬の寒い日、ご用心!
気がつけばすっかり、凍てつく鏡
真っ白、真っ白、凍てつく鏡!
はてさて、答えはわかったかな?
答えは結論、結論答え
シンキングタイム、お情けあげる!
ゆっくりじっくり考えて
時間は10秒!がんばれがんばれ!
出たかな答え、分かった?分かった?
答えは結露、結露した鏡!
真っ白凍てつく鏡は、結露。
解けたならばさあ、通してあげる!
ここは不思議な、謎の国
どこもかしこも、なぞかけだらけ
気でも狂った、なぞなぞの国!
さあさ、どうぞ楽しんで
逃げ出せるものなら、逃げてみて!」