言葉にならないものを無理矢理言い繕うのも
言葉にしなくても分かるものをくどくど説明するのも
何か違う気がして、手を止めた。
それは、よく晴れた、暑い日のことだった。
空には、山よりも大きい入道雲が、どこまでもどこまでも広がっていた。
日差しが強くて、建物の影が揺らいでいた。
そんな暑い夏の海だった。
思えば、あれが全ての始まりで、終わりでも合ったのだと思う。
私はまさにあの日、あの子に出会った。
まだ5歳ほどに見える少女が、砂浜にひとり、ぽつんと、立っていたのだった。
工業地域が立ち並ぶ海岸沿いの、人が使わない砂浜にこんなに幼い子供がひとりでいること自体が珍しくて、それは、真夏の暑い歩道を歩いていた、私の目を引いた。
あの子は、やけに大人びた目でぼんやりと、海の波を見つめていた。
それで、私はうだるような暑さに操られるようにして、そこに、同種の子供の姿をした者を慈しむ本能に押されるようにして、どう見ても不審で怪しいあの子に声をかけたのだった。
それが、覚えている限りの、あの子との記憶の最初だった。
覚えている限りの、この件の最初の記憶。
あの、暑い、暑い、真夏の記憶だった。
秋の、台風が近づいてきた今の海は、あの真夏の日が嘘のように泡立ち、波だっていた。
波はうねり、入道雲まで溶かしてしまったのか、薄墨色の空にまで、白い水滴を投げかけていた。
その波の合間に、うねる黒い何かが見えた。
暗い色の何かは、そこで蠢いていた。
終わりが来たのだ、と分かった。
私にも。
あの子にも。
波と黒い何かは、大きくうねりを上げた。
ごうう、と波が唸り声をあげた。
終わりが来ていた。
私の脳裏には、あの真夏の記憶が、真夏の眩しい日差しのように、強く閃きつづけていた。
サービスエリア トイレ休憩に待たされ、ぼたり
こぼれたアイスクリーム
コンクリートと蝉に囲まれて
日差しを避けるように俯いた
足下でアイスクリーム どろでろに、
ちょっとした水滴になって、落ちている。
こぼれたアイスクリームはきっと、
大切だった人を、大切だと思えなくなる瞬間と、一緒。
やめてよね やさしさなんて いらないの
言ってたあなたの 夫はやさしい
やさしさに 初めて“なんて”と 続けた人
きっと愛らしく 捻くれた人
つまらない そんな一辺倒なやさしさなんて
エスコートなんて レディファーストなんて
簡単な 処世術だよ やさしさなんて
やさしい大人の やさしくない答え
河原の石 角なく怒らず ただそこにある
やさしさなんて そういうものさ
乳母車にひとつだけぽつんと、無造作につけられた風車が、カラカラと音を立てた。
轍から雨粒が抉り取ってできた浅い泥だまりに、濁った液体が溜まっている。
夕立は過ぎ去っていた。
空は、先ほどの激しい大雨などまるでなかったかのように、快晴の日の夕方と相違ない、見事な茜色に染まっていた。
雨水たちは、やかましく音を立てながら、雨樋を伝って、地面へ身を投げている。
軒下に下げられたままの風鈴やてるてる坊主は、雨水でぶっくりと太った体を、僅かに揺すった。
人が居た気配は満ちていたが、人がいる気配はなかった。
まるで、つむじ風にさえ攫われ、道からこぼれ吹き荒ぶ砂煙か、あるいは、篩にかけられ、跡形もなく姿を消した粉砂糖の塊のように、生き物だけが消えていた。
人も、犬も、家畜も、虫さえ、見えなかった。
ただ、何かが生き、暮らしていた痕跡だけが、蜃気楼のように、確かに、存在していた。
あの辛抱強い生物である植物さえも、生というものを投げ捨てていた。
その一帯に、植物は確かに、居るは居たが、どれも皆、枯れ茶けた、痩せ細った体をいたずらに野外にさらしながら、首を深く折って、項垂れていた。
枯死した植物たちの死骸の、影だけが、高く、長く、伸びていた。
何が起こったかすら、消え失せていた。
ただ、生き物たちの形跡だけが、夕立にずぶ濡れにされて、立ち尽くしていた。
雨の名残だけが、みずみずしく、生を主張しようとしていた。
軽い風が、一塵吹いた。
無機物となれ果てたカサカサの植物が、風を感じて、意志もなく、靡いた。
風車が、カラカラと鳴った。