芸術は、触れないはずだった青空に、指を浸せたみたいな感じがして、指先から空に染まるような心地がして、嬉しくて、心地よくて、好き。
ざらざらの砂を左手に掬い、さらさらと落とす。
右手の人差し指で、砂に流れの線を引く。
アナログテレビの砂嵐からそのまま出てきたような砂は、白と黒の印影のみで、その形を表している。
猫が、にゃあん、と鳴いた。
ある論文によると猫は液体らしい。
猫が液体なのだったら、なぜ砂は固体なのだろうか。
猫も、砂も、こんなにも流動的なのに。
私は、固体で液体を再現しようとしていた。
オアシス。
そう、砂漠の中のオアシスを描きたかったのだ。
だから、砂で、砂の山で、オアシスを作ってみよう、と
思い立ったのだ。
砂を掬い、さらさらと落とす。
固体と液体を分ける科学的な見解による分類でさえ、こんなにも曖昧で見方の違いがあるわけなのだから、私が自分自身を分類したこの区分だって、きっと曖昧で、見る人によっては間違えているのだろうが、ともかく私は、自分的な見解からは、芸術家であった。
芸術で飯を食っているわけではないが、本業の合間に、どうしようもなく表したいものを作品に表し、拵える、という点で、私は芸術家であった。
そして今朝、私は、オアシスを作ろうと思い立ったのだった。
サボテンと、砂地と、厳しい現実の中に鎮座する、幻惑か、陽炎のように不確かで、頼もしく、そして何より美しい、あのオアシスを、唐突に作ってみたくなったのだ。
だから私は描き始めた。
砂地に確かに残る、オアシスの跡を。
誰もが思い思いに、指を浸し、喉を潤し、目を輝かせることのできるオアシスを。
このざらざらの砂地に。
左手で砂を掬い、さらさらと溢す。
猫がどこかで、にゃあん、と鳴いた。
深い皺に 涙の跡が 残る土地
激流の川 眼下を流る
振り向かず 遠ざかる君 送る君
涙の跡は 私のみ知る
空見上げ これはきっと 涙の跡!
言い踏みつける 水たまり
日に焼けた、夏の匂いがする腕が突き出ている。
薄黄ばんだ白いシャツの、ゆるゆるにたわんだ半袖の袖口から。
独特の、おひさまの香りと焦げた肌の香りが混じった、日焼けの匂いがするその腕の隣に座る。
私にとっては、それが、夏の匂いで、君の匂いだ。
皮がまだらに剥けてヒリヒリと痛そうな匂いは、こんな時期に日焼け止めも虫除けも塗られずに、腕剥き出しの半袖で、やけぱちに駆ける君からしか、しない。
私たちの溜まり場は、目線がちょうど水平線とおんなじ高さになる、高い崖の上にある。
根も枝もでこぼこと強く大きく広げた大木の枝に、詰めれば2人で座れるくらいのブランコが、木漏れ日が緑色に柔らかく差し込む、木陰に吊り下がって揺れている。
私たちは、いつもここで、学校がないために持て余した日中の時間をやり過ごす。
家を出て、自販機でミネラルウォーターの500mlを二つ買って、陽炎でゆらめく斜面を登って、ここに来る。
現実から、家族から、友達から、逃げて。
君はいつも、うっすらと汚れた半袖のシャツを着て、色の褪せた半ズボンを履いている。
そして、棒のように細い腕を、真夏の殺人的な太陽の暑さに焼かれるまま、突き出している。
私からペットボトルを受け取ると、伸び放題の前髪をくしゃっと持ち上げて、声を上げずに、笑う。
私も、笑い返す。
そうして、私たちはなんとなく、ブランコに座って、ぼんやりと遠くを眺める。
太陽に焼かれて、キラキラと光を反射している海の波の、遠く水平線と空のぼやける境目を、ぼんやり眺める。
街は見ない。
お互いの顔も見ない。
そんなのを見ても、惨めになるだけだから。
私たちは遠くを眺めて、時々、ミネラルウォーターを飲みながら、ぽつぽつ、話をする。
できるだけとりとめがなくて、現実味がなくて、どうにも役に立たないようなことばかりを、選んで、話す。
どちらからともなく。
独り言のように。
だから、私は君の家庭が抱えている問題も、君の現在の惨状も、そんなに詳しく知らない。
くたびれた服と、年の割には細いであろう胴と、日焼けによる皮剥けや肌に受けた傷みが剥き出しにほったらかされたような腕といった、見た目から見えるもの以上のことは。
逆に君も、私の家がどんな形であるかは知らないし、長袖の薄いカーディガンの下に隠れている、白い私の腕に剥き出しにつけられた痕のことも知らないだろう。
君もきっと、病的に白い私の肌と、腫れた頬と、そのくらいしか知らないはずだ。
それで良かった。
私たちがここにいるためには、それだけでいい。
私たちが私たちでいる条件は、それだけでよかったし、それだけしか必要なかった。
その証拠に、ここでいれば、私たちに、世界は少し鮮やかに見えた。
ここにいる時は、ゆるゆるにたわみ、にわかに黄色くかすんでいるはずの君の半袖は、真昼の太陽に照らされて、入道雲のように眩く白く見えた。
木陰の下で、私たちは、ぽつぽつと話した。
太陽が、君の白い半袖と肌を、やいていた。
もしも過去へと行けるなら。
かつての親友ともう一度遊ぼう。
もしも過去へと行けるなら。
ずっと後悔しているあの子との会話をやり直そう。
もしも過去へと行けるなら。
あの日崩れてしまった懐かしい景色を目に焼き付けよう。
もしも過去へと行けるなら。
もっともっとしっかり授業を受けて勉強して平均点以上をきっかり取れるようになろう。
もしも過去へと行けるなら。
修学旅行のお土産を受け取ることなく亡くなってしまったひいばあちゃんにお土産を渡そう。
もしも過去へと行けるなら。
かつて間違えたあの選択を覆そう。
もしも過去へと行けるなら。
幼いころの貴重なあの時に思い出をたくさん作ろう。
そうやって必死に考えてきた。
過去に行ってしたいこと。
過去に行って変えたいこと。
今まで後悔してきたこと。
それでも眠れない。
今夜もきっと。
過去に行って、今現在が変わってしまうのが怖くて。
過去に行って、思い出や経験が変わることで私がどこか変わってしまいそうなのが怖くて。
眠れない。
布団の中で寝返りを打つ。
いよいよ明日。明日なのだ。
私は21⬜︎⬜︎年卒の、高校三年生。
タイムマシンによる過去への修学旅行まで、あと1日。
True Love。
真実の愛。
テレビでは、ドラマの主題歌が流れ続けている。
昼食を齧りながら考える。
真実の愛とは、なんなのか。
ひとりぼっちのリビングは、少し広い。