ようやく着いた。
ドアを開けて、砂浜に降り立つ。
懐かしい、濃い潮風が広がっている。
靴を脱いで、裸足で砂を踏む。
熱砂が、肌を焼く。
日の熱を蓄えた熱さが心地よい。
磯の香りは、ベタベタと鼻につく。
波の音が、鼓膜を安らかに柔らかく揺らす。
帰ってきた。
帰ってきたのだ、海へ。
砂浜を走り出す。
白波の立つ方へ。海へ。
足を海水が濡らす。
浅瀬の海は少し緑がかっていて、粗い砂が溶けていて、透明感のあるぬるい水に流された砂粒が、ザラザラと足に心地よい。
帰ってきたのだ。
どこまでもどこまでも広がる、この海へ。
足を進める。
進むたび、海水がどんどん満ちてくる。
足へ、くるぶしへ、足首へ、ふくらはぎへ、太ももへ。
腰へ、腹へ、胸へ、顎へ。
海へ、海へ、海へ。
身体はどんどん海水に満ちていく。
ようやく海へ着いたのだ。
これでこの渇きとも、この身体ともおさらばだ。
海。僕たちの故郷への道。
海。僕たちの生きる場所。
借りていた身体の口から滑り降りる。
海水の、ヒリヒリとした水が体を包む。気持ち良い。
僕は泳ぐ。
渇きを癒す。
自由を満喫する。
今日は満潮。
僕たちの故郷と、海が、一番近くなる日。
僕たちは、海を通じてこの星に降りてきて、この星のヒトに寄生して。
ヒトの脳で幼少期を過ごした。
大人になった僕たちは、今日、故郷に帰るのだ。
地球の海から、月の海へ。
育った故郷から、生まれた故郷へ。
故郷の海から、故郷の海へ。
塩のキツい海の水が心地よい。
波間から差し込んでくる、煌めく日差しが眩しい。
夜まではまだ時間がある。
それまでこの海を楽しもう。満喫しよう。
僕は潜る。
海へ、海の深いところへ。
ヒリヒリと体を撫でてゆく海水が心地良い。
海は変わらない。
変わらずに穏やかで心地良い。
波が、僕の体をいつも、いつまでも、優しく揺すっていた。
前の人、ポケットが裏返しだ。
食券機の前で財布片手に、にらめっこしている人のジーパンのポケットは、裏地の白をあらわにしている。
らーめん。
日本の、今の時代のラーメンは美味しいらしい。
インスタント麺はよく食べていた。気軽に作れるし、電気ポットがあれば火を使わなくてもできるから。
それに日持ちするし、あんまりお金もかからない。
小学生の時の夕ご飯には、よくインスタントラーメンを食べたものだった。
うちは贅沢するような余裕はなかったし、私もママのためになるべくお家にいたかったから、お店に食べに行くラーメンには縁がなかった…というのを、師匠の家にお邪魔した時に言ったことがあった。
「もったいない!いつか食べに行こう!」
あの時、師匠と私の親友であり相棒の彼女は、口を揃えてこう言った。
あれから何ヶ月が経っただろうか。
今、私は一人でラーメン屋の列に並んでいる。
私の相棒は、未来から来たと言った。
彼女はある日、急にいなくなってしまった。
平和になったいつものある日、学校から帰ってきたら、彼女はもういなかった。
部屋の鍵が開いていて、彼女のただいまはいつまで経っても聞こえなかった。
探しようがなかった。だって彼女は未来人なんだもの。
警察も探偵も、役には立たない。
存在が立証できない存在なんだもの。
師匠にも相談した。
その師匠から来ていた連絡が途絶えて、今日で一週間。
きっと今は忙しいのだと思う。師匠は雑で、忙しくなると周りが見えなくなる人だから。
親友で、相棒で、家族だった彼女がいなくなって、見つからないまま今日が来た。
今日は3人でラーメンを食べに行く約束の日だった。
でも、2人とも帰ってこなかった。
だから私は、今、ラーメン屋の前に一人で並んでいる。
餃子、食べたいなあ…でもラーメンも食べるのに、一人で食べ切れるのかなあ……
前の人のポケットの裏地を見ながら、そんなことを考える。考えながら、ちょっと泣けてくる。
何ヶ月前かに決まった時、今日は満たされた楽しい一日になるはずだったのに。
思い出も感情も記憶も、何もかも裏返したみたいだ。
スカスカで悲しい。
ラーメンの美味しそうな匂いが、目に沁みた。
足元の小石をスニーカーが蹴飛ばす。
ピーーヨロー
尾を引く美しい鳴き声が、空の上から聞こえる。
鳶色の大きな羽を広げた鳥が、空を堂々と旋回している。
思わず、空を見上げる。
鳥は私の背が届く空よりも、何倍も高くて深い空を飛んでいる。
ピーーヨロー
鳥がもう一度鳴く。
澄んだ鳥の声が、澄んだ空に響き渡る。
空気を吸い込み、声を出そうと思う。
あの鳥のように、澄んだ声を、喉の奥から。
一声を叫ぼうとした喉は、引き攣る。
息が詰まる。
喉が痛い。
痛みと息苦しさに、思わず咳き込んだ。
うずくまる。道の端に。
咳が出る。
私は歌うのが好きだった。
私は曲を作るのが好きだった。
私は音を楽しむのが好きだった。
声が出なくても、私は音を楽しみたかったから。
いつまでも歌っていたくて、みんなに黙って都会に出た。
都会にはなんでもあった。
そこで私は今の私になった。
シンセと私が融合した今の私に。
私と一緒に歌いたいと言ってくれた人がいた。
私と一緒に踊りたいと言ってくれた人がいた。
私の曲が欲しいと言ってくれた人がいた。
ステージは私の空だった。
メロディも私の空だった。
音楽と歓声が混ざる空を、グループのみんなと自由に飛び回るのは、とても気持ちが良かった。
最高だった。
私は分かっていなかった。
空はいつか荒れること。
空にはいつか雨が降り、雷が落ちて、鳥には飛べなくなるということ。
ある日、メンバーの一人が無断欠勤をした。
それから、彼女は私たちのところへ帰って来なくなった。
私は仕事が全てだった。
音楽が楽しくて、パフォーマンスが楽しくて、それを共有して一緒に楽しむメンバーのみんなは、かけがえのない友達だと思っていた。
私たちが鳥を冠するアイドルグループであることが、何よりの友情の証だと思っていた。
でも、みんなはそうは思っていなかったみたい。
私が飛んでいた空は呆気なく崩れ去った。
みんなで飛べる空はもうなかった。
私たちのグループの風切り羽は、私たちのばらばらな手と、周りの大人の事情たちの手で、切り取られてしまった。
歌えなくなったのはその日から。
私が歌えなくなったのは。
シンセも喉の調子も少しも悪くないはずなのに。
メンテナンスの機会も増えて、この体も前よりずっと本調子なのに。
私の声はもう出ない。
もう都会にいる意味はなかった。
私は、都会で貯めたお金を持って、もう身寄りもいないこの島へ戻ってきた。
この田舎に。
もしも願いが叶うなら。
私は鳥のように歌いたい。
美しくはっきりと澄んだ声を響かせる、あの鳥のように。
私は鳥のように飛びたい。
かつて私の空だったあのステージで。
あの鳥のように自由に、涼しげに。
ピーーヨロー
鳥の声があたりに響く。
今日の空は青々と眩しかった。
朝ごはんを食べる。
見た目を整え、寝床を掃除し、辺りを確認してから、外に出る。
奴を見守るために。
茂みの中を進む。
奥へ、奥へ。
奴の住む湖を目指して。
奴が守る、湖を目指して。
我は、その昔、湖を守る蛟だった。
湖と、空と、湖の街を守るのが、かつての私の仕事だった。
土地を見守るのが、我ら土地神の勤め。
土地にできた街を慈しむのが、我ら守神の勤め。
たとえその土地の水が枯れて、戦争に巻き込まれて、ほぼ滅びた同然だったとしても、そこに住む住人が一人でもいるならば、我はそれを慈しむ。
ここに住んでいた住人は、かつて街で育った若者によって、立ち退きを依頼された。
かつての街は、夢を追って街を出た若者によって、滅びた。
久しぶりに街へ現れたその人は、人の命を守ろうとする、清濁を飲み込んだ強い大人に成長していた。
気持ちは痛いほど分かった。
外敵に屠られるくらいなら、いっそ自分の手で。
住む人々を侵略の欲に晒すくらいなら、いっそ脱出を。
街の人々は、痛いほどのその気持ちを汲んで、この街を去ることを決めた。
我も、奴らにさよならを言う覚悟を決めた。
だから、奴らの行動は青天の霹靂だった。
奴らはさよならを言う前に、社を立て始めたのだ。
枯れた湖の望める山中の平地に、我の社を。
さよならを言う前に。
奴らはこう言った。
“私たちの街の蛟の神様、青空を孕んだイルカの蛟様、どうかこの土地を見守ってください。それから、私たちのために辛い選択を迫られたあの子を、どうか、どうか最後まで守ってやってください”
矮小な人間らしい、愚かな戯けごとだ。
貴様らに言われなくとも、この地脈で生きる私はここから離れられぬ。どうなろうと土地を見守るつもりであったわ。
…だが、奴らの行動に、我の内側からどうしようもなく熱いものが込み上げてきたのも、また事実だった。
我は今も、社に住んでいる。
我は今も、変わり果てた湖の街へ通っている。
我の偶像と共に、一人でこの地を見守る、奴の顔を見に。
人間とは、なんとも理解し難く、哀れな生き物なのだろう。
我の偶像を眺めながら、空を観る奴を見るたびに、我は言いようのない切なさと温かさに襲われる。
今日も奴は生きているだろうか。
空をヒレで打つ。
我は急いでいた。奴の顔を見るために。
今日の空は、濁って荒れていた。
水色の背景に、白い綿雲。
空模様のイルカのキーホルダーが、目の前で揺れている。
つまみ上げたイルカのキーホルダーは、ふらふらと揺れる。
金具の繋ぎ目についた、錆びついた鈴がしゃらしゃらと鳴る。
窓からは、一面、ぐずついた空模様が見える。
鳩が、ゲージの中でくるっぽー、と鳴く。
この家は、空と湖との真ん中を貫くように建っていた。
尤も、その湖というのは枯れてしまっていて、今はただひび割れた地面を、僅かばかりの湧き出した水が湿らす程度だった。
この空模様のイルカは、ここの象徴だった。
ここは長い間、水上都市だった。
積み木のような家が、水面が上がるたびにぽこぽこと建って、人も物も、小舟で空の下を自由に動き回った。
舟から見上げると、遮るもののない空が一面に見えた。
ここは美しい街だった。
今はもう、私しかいない。
イルカのお腹の綿雲は、くっきりと真っ白だ。
ここは美しい街だった。
と、同時に、ここは戦略的に重要な都市でもあった。
山中の窪みの中に、湧き水や地下水によって奇跡的に作られたこの孤立した土地は、争いを好まず、知らなかった。
だから、破壊するのは簡単だった。
水を枯らすのも、不安定に高い家を崩すのも、舟を動かなくさせるのも。
ここは、山中を行軍する者には、都合の良い中継地であり、補給地だった。
だからこそ。
だから尚更、敵の手に落とす訳にはいかなかった。
湖を枯らし、住民たちを追い出した。
主要施設を取り壊し、街の人々に立ち退くよう懇願した。
人々は、瞳の奥に戸惑いや悲しみを過らせながらも、私の手を握って、昔のように笑いかけ、街を去って行った。
私に、頑張れ、と言い置いて。
私はこの街の出身だった。
長い時間をかけて、国際情勢は徐々に落ち着きを取り戻していった。
この街の跡地も、戦場となったり、廃墟となったりと変遷を繰り返し、国境に敵が覗めなくなった時期に、静寂を取り戻した。
今は、私一人が、ありとあらゆる通信機器や連絡手段と最低限の武装と共に、見張り兵としてこの家に住み続けている。
窓の外は雨が降り始めた。
雷の音がどこか遠くで聞こえた。
ここから都市へ出るときから、ずっと肌身離さず持っているイルカのキーホルダーを揺らす。
激しい雨音の中、晴天を孕んだイルカのキーホルダーが、しゃらしゃらと鳴った。