西の空が赤く染まる。
今日も無事に村まで帰って来れた。
仕事仲間のシェパードが、豊かな長毛を靡かせて、こちらを見つめている。
今日の仕事は終わりだ。
今日も1匹の遜色もなく、羊たちを送り届けた。
雇い主に羊の群れを渡し、報酬を貰い、仕事仲間の頭を一撫して別れを告げる。
杖を持ち直し、帰路に着く。
雇い主がこちらに向かって唾を吐き、扉の奥に消えていくのを目の端で捉えながら、僕はまっすぐ歩き続ける。
杖の、緩やかにカーブした持ち手に下げた鳥かごが、ゆらりと揺れる。
正確には、鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中の鳥かごの中で狭苦しそうにもがく、漆黒の渦巻きが、揺れる。
厳重に鳥かごの中に押し込められた、この小さな漆黒の闇渦巻きは、狭い狭い鳥かごの中、二対の黒い羽根を交互に羽ばたきながら、ぐるぐるとこの世の負のエネルギーを蓄えている。
これは厄災だ。
かつては僕たち人間を脅かした、“魔王”と呼ばれていた者の、悪意と魔力と力の核。
つまり、人間社会にとっての厄災。
魔王は二年前、勇者によって倒され、肉体を失った。
だが、魔王と勇者の決戦の決着によって表面化した、魔王の無念、勇者とその仲間たちの無念と奪われた平和な生活に対する負の感情を吸った魔王の核は、佇み続けた。
一応、勇者の仲間の聖職者が、最期の力で、厄災の核を抑え込んだらしい。だから、厄災の核はこれほどまでに小さいのだ。
仲間を失い、幸福という犠牲を払って帰還を遂げた勇者は、一年前に国王に疎まれ、他国の人々からは危険視され、無念の死を遂げた。
英雄とはそういうものなのだ、と、僕たちは思った。
…参政権を持つ民には、為政者に納得できるカバーストーリーが流布されていそうだが。
ともかく、そんなこんなで放置された厄災の核。
これを僕が見つけたのは、仕事の最中のことだった。
いつものように、村民や雇い主に半ば追い出されるような形で羊の群れを受け渡され、高原へ向かったいつもの朝。
僕は、二対の羽根で悠々と飛ぶ、この核を見つけたのだ。
僕にとって…周りから畏怖と軽蔑の目で見られ、聖職者からは敵視される僕たち羊飼いにとって、これほど魅力的な拾い物はなかった。
この僕たちにとって厳しい、酷い社会を破壊できる兵器を手に入れたも同然だ。
だから僕は、それを鳥かごの中に拾い上げた。
消滅させなかったことを恩に着せ、しばらく鳥かごの中で飼い殺しにすることにした。
コイツのおかげで、僕の精神はすっかり安定した。
いざとなれば手がある。
それに、コイツのおかげで魔物も肉食獣も寄って来ない。
仕事がだいぶ快適になった。
鳥かごは僕に自由と余裕をもたらしてくれた。
鳥かごの中で、闇渦巻きは、もがいている。
ヤツは逃げたいらしい。逃すものか。
この鳥かごの中にいるコイツは、僕の幸せの青い鳥なんだから。
ヤツの気を削ぐため、鳥かごを揺すりながら帰路に着く。
聖歌なんかも口ずさんでやる。
黒い二対の羽根の動きが鈍る。それでいいんだ。
空が赤く染まっている。
今日もぐっすり眠れそうだ。
ラクトアイスを齧る。
久しぶりに母校に来た。
部室にはまだ、見覚えのある新聞記事がラミネートされて貼られている。
もう何年も会っていない顔が、幼さの残る私の顔と一緒に写っていた。
固い、下手な笑顔で。
あの日、目標と勝利の前には、私たちはただの駒だった。
役割を全うすること、課された勝利を掴むこと。
ここではそれが、私たちの存在意義だった。
私は弱かった。
誰よりも一番アマちゃんで、ヘタクソで、意気地なしだった。
だから私は、みんなと対等ではなかった。
常に一番下の、守られるべき鎹でしかなかった。
私をどうにか守って、上の大会へ連れていくという意識のもとで、私たちは結束した。
私はまるで、愛玩動物でしかなかった。
それでも。
それでも悲しいことに、私は人間に成りかけていた。
技術に見合わない自尊心と理想が、現実との摩擦で脳を焼いていた。
あの日。
私は仲間と感情を共有することはなかった。
私のチームに起こることは、常に私の預かり知れぬことだった。
涙さえ流さなかった。
ラクトアイスは固い。
噛み砕くと程よい淡白な歯応えが、口の中に残った。
あの日の私は…
仲間は仲間ではなく、一緒に戦った仲間は友人ではなかった。
私は、守られっぱなし、誰を脅かすこともない、ただのか弱いヒト科の何かでしかなかった。
それでも私は人間だった。
だから、もうあの時のチームメイトには誰にも会うことができなかった。しなかった。
携帯を持っていないのをいいことに、卒業と同時に、私は誰にも会わなくなった。
もう進学校も今の顔も近況すら知らない。
それでも。
今思えば、それも一つの友情だったように思うのだ。
苦しみと屈辱のその思い出に、微かに、懐かしさと温かさが混ざるのだ。
会いたくないの中に、優しかったが混ざるのだ。
全員の名前を、今でも覚えている。
全員の癖も、笑い方も、雑談のノリも。
忘れたはずの思い出は、まだ奥底に沈んでいる。
見ないふりした友情は、まだ奥底で燻っている。
そういう友情もあるのだ。
ラクトアイスを齧る。
淡白で、頑なで、甘さ控えめ。
噛み砕いた感触だけが強く残る。
そういう友情もあるのだ。
棒付きラクトアイスのような友情も。
夏の日差しが窓から差した。
底から這い出た思い出の中の景色が、そこにはあった。
くっきりと青色が貼り付いている。
快晴の、茹だるような暑さが揺らいで、太陽が地上を焼いていた。
揺らいだ暑さはいつまでも地面に縫い付けられて、陽炎と呼ばれて、そこに居た。
…ようやく、花が咲いた。
前に蒔いた種が、苗になり、蕾を綻ばせた。
葉に這い寄るナメクジに塩化ナトリウムをかけた。
花咲いて。
大輪のヒマワリは、太陽の方を向いて、堂々と一本立ちしていた。
けたたましいセミの波長と太陽の熱光線に祝福されて、ヒマワリはまっすぐに太陽を見つめていた。
花咲いて、
ヒマワリを抜くことにしたのは君だった。
一番立派に育ったヒマワリを、根ごと掘り出して、無邪気な笑顔を浮かべて君はヒマワリを抱きしめた。
私がこの地に降り立った時、同じ笑顔で君は言った。
「せめてこの種だけは育てさせて」
「花が咲いて、花が咲いたら…あなたにきっとぴったりな花だから」
だから私は待った。
この星で半年と数える期間を。
しょうがない。
だって一目惚れしてしまったのだ。
地球人とは存外無力で可愛らしく感じたから。
歪んだり慌てたりするのを眺めるのは、最高に可愛い素質がありそうな星だった。
ここまで強かだとは思っていなかった。
両腕に痛みが走る。気のせいだ。
もう私は故郷に帰ることはない。
花咲いて。君笑って。私の腕舞って。
私はこの青色の空に閉じ込められた。
ヒマワリのように、太陽のように、眩しくて大きな笑顔に捉えられてしまったから。
花が咲いたから。
愛とはなんだろう。
私はこの星の支配種族たる人を愛していた。愛でたかった。
なのにこんなことになるなんて。
巻きついた鎖。
地に縫い付けられた足。
ない両腕。
取り上げられた宇宙船。
頭上に蓋をする、悍ましい青色の空。
大輪のヒマワリを抱いた君の笑顔。
陽炎がゆらめく。
この茹だるような暑さは、私と同じ境遇らしい。
太陽はいつまでも燃えていた。
どこまでも、どこまでも、ヒマワリが続いている。
花咲いて。
こちらに顔を向けて。
けたたましいセミの波長が、いつまでも、いつまでも、空気を震わせていた。
恥の多い人生でした。
時間を逆行したくて堪らなかった。
後悔は山ほどあった。
消したい過去も山ほどあった。
ヤケになって、乱暴に生きて、怠惰を極めて、どうしようもない現実と、罪深くて劣悪な自分を飲み込んで。
過去を変えたいと思っていた。
未来を変えたいと思っていた。
世界を変えたいと思っていた。
それらが変わるのは、自分が変わるよりずっと楽なことだと思ったから。
もしもタイムマシンがあったなら。
真昼間の炎天下の中、アスファルトを歩きながら、幾度となくそんなことを考えた。
真夏の太陽は、相変わらず真っ赤に燃えていて、シャワシャワと蝉の雑音がのしかかっていた。
汗が首筋から滴り落ちていた。
なんで足が進まないのか、なぜ体調が優れないのか、自分でもよく分からなかった。
アスファルトからの照り返しが肌に突き刺さっていた。
これは自分で選んだ道だった。
でも間違いだった。
こんな早くに人生で躓く予定はなかったのに、私は躓いた。
だからタイムマシンが欲しかった。
過去をやり直す。未来をやり直す。
人生を建て直したかった。
ミミズがからっからに乾いて死んでいた。
私はお使いに来たのだった。
だから早く薬局に行って、買い物をしなくてはならなかった。
人とすれ違い、密閉された大型の迷路みたいなお店で、母に必要なものを買って、父に頼まれたものを買って、家へ帰るのが私の仕事だった。
蝉の雑音が私の頭を鷲掴んでいた。
歩道は足元から弛んでいるような気がした。
このお使いついでに、私はタイムマシンの代わりになるものを買って帰ろうと思っていた。
私には片道切符がちょうど良いと思っていた。
でも、片道切符すら無相応だったかもしれなかった。
もしもタイムマシンがあったなら、私は片道切符を買えただろう。
なんなくお使いをこなせただろう。
こっそり引き出しに忍ばせた白い封筒を、机の上に乗せられただろう。
なにより、こんなことしなくても良かったのかもしれない。
目眩がした。座って休みたかった。
ベンチに座った。
お金は掌の中でくしゃくしゃになっていた。
見窄らしくて、よれていた。
重たい頭を動かして、無理やり前を向いた。
遊具の方は眩しかった。
立ち上がる。
お使いに行かないと。
でも、今日の私では、自分の欲しいものは到底買えそうにない。アドリブなんて無理だ。
頭痛が痛い。
ふわふわしている足を、アスファルトに一歩踏み出す。
恥の多い人生は、まだ続くようでした。
灰を足で蹴り飛ばす。
地面はうっすらと積もった灰で埋もれている。
コンクリートも鉄筋も剥き出しで、崩れている。
ボロボロのビル群を、唾を飲んで私は歩く。
水と食料を探さないと。
一年前、塩水が降って、この世界は少しずつボロボロに欠けていった。
塩の香りは、色々なものの酸化を運んできた。
何もかもが錆びつき、削れ、少しずつ倒壊した。
ボロボロに崩れて、最後まで分解されたものたちは、やがて灰のように大地に降り積もっていった。
今では、外を歩けば、一センチほどに積もった灰が、いつもいつでも爪先に引っかかる。
手持ちのラジオがノイズを吐いている。
灰が隙間に紛れこんでしまったのだろう。
すれ違う人は誰もいない。
スマホを取り出す。
二年前、友達と撮った写真。
五年前からつけ始めた日記。
まだ日常が日常だった時に吐き出した愚痴のメモ。
いつか手に入れたかったほしい物リスト。
とても懐かしい。
見るだけで、あの時のことが込み上げる。
今となっては全てが過去のもので、ボロボロに崩れ去ってしまった気がする。
あの頃私が欲しかったものは、
誰からでも愛される魅力。
最新型のスマートフォン。
友達と掴む勝利。
志望校に行けるだけの頭脳。
私だけの個性。
好きな曲の入ったアルバムとCD。
こんな世界で生きるためには、あまり実用性がないものばかりだったけど、あの頃の私は、確かにそれらが一番欲しかった。
じゃあ今は…?
灰にまみれたこの世界で、塩の匂いと寂寥感を吸い込みながら歩くこの世界で、私が欲しいものはなんなのだろう。
分からない。
私が今一番欲しいもの…
手元のスマホに視線を移す。
灰にまみれる前の私の生活が写っている。
友達が、家族が、好きだったものが笑っている。
私が今一番欲しいもの…
込み上げてきた涙を飲み込む。
水分をこぼすのはもったいないから。
私が覚えていなきゃ、私が生きていなきゃ、
この世界の灰にまみれる前を知る人がいなくなるかもしれないから。
私の日常が、消えてしまうかもしれないから。
前を向く。
塩の匂いがむせかえる。
私が今一番欲しいもの。
それは壊れることのない記憶媒体かもしれない。
塩が降る前の私の日常を永遠に伝える、何かが。
ボロボロに崩れたコンクリートが爪先に積もる。
灰のビル群の中の視界は、随分と広かった。