薄墨

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6/23/2024, 3:48:41 PM

子供の頃は、親が守ってくれていた。
あまり良い両親とは言えなかったが、それでも確かに、俺は守られていた。

子供の頃は、裏切りなんて知らなかった。
友達は、今日も明日も明後日もずっと友達で、いつも一緒だと思っていた。

子供の頃は、自分が幸せになれるものだと信じて疑わなかった。
大切な人がいつかできて、人生の目標がやがて見つかってやり遂げて、安らかに眠りにつくものだと思っていた。

俺は幸せな少年だった。
あの時が来るまでは。

「この機械じゃ、世界は変えられんよ」
駆け込んできた俺に、冷静に彼女は言った。

彼女は淡々と、ホワイトボードに樹形図を書きながら、話し始めた。
「いいか?世界は選択の数だけ無限にある。私たちの世界はちょうど、そう観測されたことによってチャンネルが合っているだけで、私たちの世界線の外には、これまでの全ての“選択されなかった”選択の先の世界が、並行して並んでいるんだ」

「つまりだね…このタイムマシンで過去に行き、選択を変えたとて、それは君がその選択を選んだ世界線へ移動するだけで、新たな君がここで苦悩することになるのだよ…」
「だから、正直おすすめしないね。その選択をした世界線の君と君が入れ替わるだけで、それ以外にこの世界にはなんの変化もない。ひょっとしたら自分に恨まれることもある。よって、そんなリスクの高い意味のない行動はおすすめしない」

「俺は行きます」
俺は答えた。どんなに無駄なことであろうと、最初から決めていた。
俺の言葉に、彼女は微かに眉根を寄せ、ため息をついてから、少し震える声で続けた。
「…確かに今回の件は私も辛い。だが……」
「俺は行きます」
彼女の言葉を遮って俺は怒鳴った。

「もうこんな世界は懲り懲りなんだ!両親は死んだ!親不孝の息子のせいで、分かりあう前に、仲直りもできないままで!!友達もいない!良い奴から死んで、生き残った奴は裏切った!俺には何にも残っちゃいない!!」
喉にひりついた痛みが込み上げる。

俺はゴホゴホと痛みを吐き出す。
赤い飛沫が落ちる。
俺の方に傾いだ彼女の手を、俺は振り払って怒鳴る。
喉から掠れた声が出た。

「この世界に何も残っちゃいないんだ…!もう…もうこんな貧乏くじは懲り懲りなんだ…戻りたいんだ、子供の頃に。子供の頃は…ああ…頼むよ……最期の望みなんだから」

彼女は黙って立ち上がる。
俺はゼイゼイと肩で息をしながら項垂れて、長い沈黙をしばらく享受した。

足音が近づいてくる。

俺の目の前に、鍵が差し出される。
「…そこまで言うなら、勝手にするといい」
「…!ありがとう!」

俺は鍵をおしいただいて、顔を上げる。
「私だって、面倒事はもう懲り懲りだ。……この件が最期のお願いだと心得ろよ」
俺の泣き笑いの顔に、彼女はそう冷たく言い放った。

しかし何故だろう、彼女の目の奥に、ちらりと悲しみとも切なさとも諦めともとれる形容し難い何かが、チラと走ったように見えた。

「じゃあ、さっさと行くが良いさ。じゃあな」
「ああ、さようなら」
俺は鍵を使い、タイムマシンに乗り込む


__これで何回目だろうか。
タイムマシンが消えた研究室の椅子に、ぐったりと、腰掛ける。
彼が、世界線の移動を始めてから、私は何人の彼を見送ったことだろう。
タイムマシンで行えるのは世界線の変更。
質量保存の法則で、移動した世界線の人物は入れ替わり、別世界線の同じ人物が、この世界線にやってくる。
“記憶を消されて”

世界の理とは、実に上手くできているものだ。
世界線を移動した人物の記憶は、移動した時点でその世界線のものに書き換えられる。
記憶は保管される。

…それが分かったのは、私が彼を送り出してからのことだった。
故に彼は、何度も何度も、無限と思えるくらいにこれを繰り返している。

説明は意味を為さなかった。
この世界線で起きた出来事に絶望し切った彼の摩耗した精神の前には、如何なる理性も通用しなかった。

これは私の責任だろう。
世界線を跨ぐということに無知で、タイムマシンの安全性を試さずに彼を送り出してしまった、私の責任だ。
…だから私は、最期までこれを見届けなくてはならない。

子供の頃は。
私はただタイムマシンに憧れているだけの理屈っぽいただの少女だった。

子供の頃は。
彼はちょっと野心の強い、真っ直ぐした性根のやんちゃなただの少年だった。

「子供の頃は…子供の頃に戻りたいな」

ひっそりと弱音が漏れた。
誰もいない研究室。
たった1人の味方だった彼はもういない。もう帰ってこない。
私の研究成果はもう戻らない。動かなくなるまで彼と一緒に永遠とループし続ける。

私は独りだ。
目を瞑る。

私の呼吸は、独りの沈黙の中に、静かに溶けていった。

6/22/2024, 12:52:09 PM

電気をつける。
ちっぽけな部屋を照らすちっぽけな照明が、いつものようにジジッと音を立てて点灯する。

なんとなくテレビをつけて、今日の夕飯をテーブルに並べる。
国民用ラジオが静かに稼働を始める。

ビニール袋から箸を取り出して、手を合わす。
味気ない夕飯をもそもそと書き込みながら、今日もチカチカと光を放つテレビと、やかましく話し続けるラジオに程々の意識を傾ける。

暗幕で光を抑えたさもしい照明。
勇ましいことをいろいろと叫ぶ国民用ラジオ。
派手な演出と射幸感を煽るテレビ番組。
テーブルと、椅子と、毛羽立った分厚いカーテンのみの一部屋。
端にこっそりと、硬いマットレスを乗せた小さなベッドが横たわっている。

夕飯を食べ終えると、申し訳程度についている洗面台に向かい、歯を磨く。
ラジオからは、ちょうど、配給券の得点相場についてのニュースが流れ始めたところだ。
テレビは、戦果報告をやたら派手な演出で祝っている。

それを耳に挟みながら、国民用端末を立ち上げて中身を覗きながら、歯を磨く。
いつもの日常だ。

深く考えてはいけない。
ここでは深く考えてはいけないのだ。

もう何年前のことかも思い出せない、ある日。
この国に、未確認生命体が攻めてきた。
奴らは、電波を操り、未知のテクノロジーを使って、人間を侵略しようとした、らしい。
…公営の報告によれば。

そしてそれを阻止するため、政府は緊急法案を作り出した。

公営のもの以外から情報を得ることは、未確認生命体の侵略の被害に遭うとされ、禁止された。

未確認生命体が、人間に扮して侵略を進めるとされ、全ての行動は、国民用端末を利用して監視されることとなった。

未確認生命体の国民をターゲットにした扇動を防ぐため、個人的に読書や調査によって情報を収集すること、個人が深く思考するということを禁止された。

夜は未確認生命体に襲われないように、外出することが禁止された。

住む場所は政府によって各人に割り当てられ、本棚は全て燃やされた。

現に、閉まっているカーテンの隙間から、一つ目の何かが歩んでいるのがたまに見える。
未確認生命体はいるのだ。
…それが襲ってくる気配は、今のところない。
が、政府は危険視している。接触してはいけない。

これが日常。日常なのだ。
いつから続いているかは分からない。
いつまで続くかも分からない。

でも、これが既にこの世界の日常だ。
…深く考えることは罪なのだ。

私は、テレビを消す。
ラジオを消す。
照明を消す。
電気は繋げっぱなしにしておく。監視カメラが動かなくなるから。

硬いマットレスに横になり、目覚まし時計をかけて目を瞑る。
深く考えてはいけない。
いつも通り日常を過ごさねば。

頭で何度もそう唱える。
心の奥から湧き上がる危険思想を噛み殺す。
政府は独裁をしているのではないか
未確認生命体は本当に敵なのか
そんなことは考えてはいけない。
思考は、日常に必要ない。

目を瞑る。
毛布を被る。
ジィーッ
電気の駆動音が、じっと鳴っている。
深く息をすい、目を閉じる。
危険思想も意識もゆっくりと、睡魔に呑み込まれていった。

6/21/2024, 12:00:32 PM

赤シート越しに空を見上げる。

好きな色は青色だった。
「やっぱり。似合ってる!」そう言って、眩しくてあたたかい金色の目を輝かせて、笑ってくれたから。
「夜空みたいに綺麗な深い紫の目だもん、ぜったい青似合うと思ったんだよね」

色違いでお揃いのペンジュラムを買った。
一緒にお呪いを試した。
こっそり灯台の書庫に忍び込んだ。

思えば、その時は、ぽつんとそこだけ塗られたぬり絵みたいに、私たちの日常には色があった。

「空と海って、青いんだって」
空に手を翳して、眩しそうに目を細めた横顔を、私は瞳を輝かせて聞いた。
「朝は青くて、夕方には赤く焼けて、夜には深い紫に、たくさん星が出るんだって。写真を見せてくれたんだよ、内緒で、パパがね」
私たちは、そのアルバムに夢中になった。
空はいろんな色で、海もいろんな色をしている。
夢みたいだった。

中でも青色の空と海は美しかった。
とても眩しかった。
当たる光が、隣でゆっくりと瞬く瞳と同じで、眩しくてあたたかい気がして。

あの日、私たちは喧嘩した。
もう原因は憶えていない、思い出せない。
頭に分厚い灰色の雲が立ち込めたみたいに。

私は走って、走って、何故だか泣きながら海に向かった。
魚の生臭い匂いとカラスの鳴き声が立ち込めているはずの、あの灰色の海に。

奇跡の日だった。
あの日、雲と霧は晴れて。
真っ赤に燃える赤い丸が、海の向こうに見えて。
橙色に空が染まって。
眩しいのにあたたかくて。
見せたくて走った。会いたくて走った。
仲直りしたかった。

それがその日の記憶の最後。
二度と会えなかった。
私たちはあの日の夕焼けを、並んで見ることはできなかった。
次の日の空は元の通り、分厚い灰色の雲に覆われて、海は冷たく灰色にうねりをあげていた。

霧が空を取り巻いて、潮の匂いが目に染みる。
もう変わらなかった。陰鬱に沈み、色があるはずなのにモノクロで、賑やかなはずなのに静かで。
ここの生活は変わらずに。
金色の、眩しくてあたたかい、一対の瞳だけが失われて。

あのあたたかい海が、私の網膜を焼いた。
金色の、眩しくてあたたかい瞳が、目の奥をちらついた。
赤く橙に染まった空が、私の海馬を熱した。
それだけが、残ったものだった。

私の好きな色は、青色だった。
青色だった。

赤シートを空にかざす。
鈍い海風が、低く唸る波の音を響かせていた。

6/20/2024, 1:47:20 PM

「私たち、ずっと親友だよ!」
パステルカラフルなゾウのぬいぐるみの横で、私たちは指切りした。

つみきで作った町。
放り投げたクッションと空になったおもちゃ箱。
親友の証に2人でつけた、お揃いのシュシュ。
座って話し続けた、角の丸いラグ。

目を瞑ると、そんなことばかり思い浮かぶ。

夢が剥がれて、勉強一色になってしまった机が、みすぼらしく目の前にある。
一緒に描いた絵は、まとめて引き出しの中に仕舞ってしまった。

引き出しの奥にしまいこまれていた秘密の宝箱を開く。
中身は見なくても知っている。
あなたと2人で一緒に集めた数々の宝物。
砂場に紛れていた貝殻、笠を被ったピカピカのドングリ、ラムネの瓶から引き上げた透明なビー玉、まんまるで真っ白い滑らかな小石…

あなたの記憶。あなたとの想い出。
思い出のものも随分減ってしまった。
私が大きくなったから。

あの頃の私は、1人で眠るのが怖かった。
あなたがいたから、私はこの部屋で朝を迎えられるようになった。

あの頃の私は、1人の時間を持て余した。
あなたがいたから、私はずっと楽しく毎日を過ごすことができた。

あの頃の私も寂しくて、理解者なんていなくて、絶望していた。
あなたがいたから、私は寂しさに押し潰されずにすんだ。

あなたがいたから…

私は大丈夫なのだろうか。あなたがいなくて。

小さい頃にあなたと2人で使ったスケッチブック。
幼い頃にお母さんに渡された、幼児用ノート。
あなたとお揃いの証につけたシュシュ。

あなたの痕跡。あなたがいた証拠。

これを捨てろ、と周りの人たちは言う。
大人になるために捨てなさい、と言う。

嫌だ、嫌だった。
こんなことをしなきゃいけないなら、私は大人になりたくない。
私はずっと子どものままで、ずっとあなたと親友でいたい。

…でもあなたは、もう、私の前に現れてくれない。
なんで?私が大きくなってしまったから?

私が悩んでいる時には、いつも答えてくれたあなたはもう出てきてくれない。

どこへ行ったの?
もう消えてしまったの?
私の、私だけの親友。
いつも私と一緒に居てくれる、空想の中のお友達。

あなたがいたから、私はここまで大きくなれたのに。
あなたには、もう会えないの?

私はぼんやり机の上を眺める。
可燃ゴミの袋の口を掴んだまま、立ち尽くす。
「ねえ、どうすればいいのかな」
私の声は、虚しくゴミ袋に吸い込まれていった。

6/19/2024, 12:49:15 PM

「…なあ、傘のる?入ってかん?」
ポロッとこぼれてしまった。
素通りしようかと思ってたのに。

疲れて眠ってしまったような幼い子をおぶったあの子が振り返った。
大きな目をさらに大きく見開いて、ポカンと口を開けて、こちらを見る。
その表情はどうも、いつもに増して、間が抜けているようだった。

暫しの沈黙の後、
「…なんしとうの?こんな時間に」
あの子は、こちらの質問は黙殺して、眉を顰めながら聞いた。

「…御使いの帰りやけど」
思わず、僕の返答もつっけんどんになった。

「…さっと帰ったらええやん。なんで私に声かける必要があるん?」
あの子の返答は無愛想だった。
「哀れみやったらもう充分やし」
「…さよか、ならもうええわ」
雨に濡れていないのに冷や水をかけられた気がして、僕はそう答えて傘を構えた。

あの子は何も答えないで、背を向けた。
僕は、負け犬の遠吠えや、カッコ悪う、と内心思いながらも、その背に言葉を投げつけてやった。
「今日は晩ずっと雨や言うてるのに、いつ帰るつもりなんやろな!このあと濡れて帰るんか?可哀想気取りで?そっちの方が哀れやろ!」
だいたいな、と僕はまだ固まったようなあの子の背に投げつける。

「こんな雨ん中帰ったら、風邪ひくやろが!お前もおぶうてる子も!お前が学校休んだら面白ないやないか!」
勝手にしたらええわ!そう言い捨てて傘を開こうとした僕の腕を、あの子が掴んだ。

その手先のひんやりとした冷たさに怯んだ。
いったいいつからここで雨宿りしていたのだろう…?

「…ごめん、生意気言うた。……入れて」
蚊の鳴くような声で、俯いたその顔は言った。
僕は、戸惑いながら傘を広げた。

黙って二人並んで歩いた。
今日、間違えて父さんの傘を持って来てよかったと思った。
気まずそうに拳ひとつ分の間を開けて歩くあの子が濡れていなかったから。

傘に当たる雨音だけが、ボタボタと傘の中を響いた。

「…ごめん。今日悪いことばっかりやって、今もあそこに置いてかれてて、気が立ってて、ごめん」
不意に雨音にあの子の声が混ざった。

あの子は勉強ができないトロい方の生徒だった。
だから理論だってないその謝り方はいつも教室で見る素のあの子で、どうしようもなく切なかった。
「…僕もごめん。嫌なこと言うたよな」

だから、僕もポツンと、そう謝った。

「…家、まだあんまりなんやったら何処か寄ろ」
謝ってからの次の言葉は、思わず出た。
「……ええの?ありがと」
全く晴れやかな声とは言えなかったが、さっきよりは少し明るいような、弱さを孕んでいるような、そんな声だった。

「うん、あったかいとこ寄ろ」

傘がボタボタと音を立てる。
傘の骨の先から、雨粒がひっきりなしに落ちている。
雨が、僕らの頭の上をずっと降り続いていた。

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