永遠の絆。
あの日、彼女はそう言った。
私たちの関係を、私たちの仲を、彼女はそう表現した。
そんなものはない。
私はそう思ったけど、口にはしなかった。
そういうことは言うべきでないという思慮分別が、あの頃の私たちにはあった。
ロリポップチョコを手に取る。
彼女が好きだったものだ。
甘い。甘すぎる。
トッピングにつけられたスプレーチョコのチープな甘さが口の中に広がる。
口の中全体がこってりチョコ味に染まる。
…彼女らしい。
葉書を裏返す。
ボールペンを手に取って、書いた言葉を確認し、最後に署名_といってもペンネームのようなものだが_を書き添える。
“ウツボカズラ”
彼女と、みんなと出会った時に、私の名となったその花の名前を、未だに使っている。
“食虫植物”
これが私たちの名前だった。
熱く、長く、延々と語り合い、刺々しく、ギラギラと理想の音楽を追い続けた、あの頃の私たちは。
そんな関係性、長く続かなかったのだ。
充実して、濃くて、命を削るような習慣は、長続きしない。
私たちの関係は、結局のところ、社会の仕組みも知らない青二歳が、若いうちに精一杯やるような一夏の青春みたいなものだったのだ。
…それがここまで続いたのだ。十分長かった。
『突然の別れ』
マスコミはこぞって書き立てた。
ファンでいてくれた人たちは悲しげに呟いた。
彼女はヒステリックに叫んだ。
私たちはしみじみと話した。
「本当に突然だね。突然の別れ、でもしょうがないよね。さようなら」
私たちのメンバーの1人が失踪して、私たちが“食虫植物”から“友達”になって、別々に歩き始めてから、もう一年が経つ。
若気の至りの、モラトリアムの延長上の、青春のボーナスタイム。活動をそう考えていたほとんどのメンバーは、社会に凡庸な人として溶け込み、一般人へと戻った。私もそうした。
…でも、彼女だけは違った。
彼女だけは、今でも、“食虫植物”として生きている。
人々を惹きつけ、離さない。食虫植物として。
子供じみている。意地っ張りの少女みたいな行動だ。
でも私は、そんな彼女が好きだった。
彼女の声は綺麗だった。
当たり前だ。
彼女の声に一目惚れした私が、彼女を“食虫植物”にしたのだ。
彼女の声の魅力は、活動拠点をライブハウスや音楽番組から、ラジオのパーソナリティーに異動したとしても、変わらなかった。
だから私は彼女に、葉書を書く。
私は“突然の別れ”を受け入れてしまったつまらない大人だ。
一目惚れして引き込んだ人を支える責任を、最後まで持てなかった仲間失格の人間だ。
それでも私は、情けないことに、まだ彼女の声を支えたかった。
まだ彼女の声で、私の名前を呼んで欲しかった。
だから私は葉書を書く。
突然の別れなどなかったように、最初から他人だったかのように、名前だけが同じなただの一ファンのように。
私は今日も、彼女に葉書を書く。
口の中が甘ったるい。
彼女は甘いものが好きだった。特にチョコ。
切手を貼ろう。
水をつけた指の腹で、切手を撫でる。
ひんやりとした水が一筋、指をつたって溢れた。
「好きです!」
女子高生が屋上で、男子高生に向けて叫ぶ。
一瞬の間の後、女子高生があわあわと早口で言い募る
「あ、えっと、その、すみません!言うつもりはなくて…ちょ、あの、ごめ…
「謝らないで!」
間髪を容れず、相手の男子高生が叫ぶ。
…一瞬の間をおいて、男子高生が照れくさそうに首を撫でながら、
「実は俺も…好きだったんだ」……
この後の展開はページをおくらずとも想像できる。
互いに頬を染めながら付き合い、バカップル上等とばかりのデートを重ねて、イチャイチャと絆を深めて、最後には幸せなキスをして終了_
手元に置いた炭酸水を飲む。
無味だ。二酸化炭素だけが口内と喉を刺激する。
机の片隅で、ラジオが喋っている。
「__続いてのお便りは、ペンネーム、ウツボカズラさんから」
炭酸水は水の味しかしない。
目の前の、この作品みたいだ。
ストーリーは無味だ。絵の綺麗さだけが脳を刺激する。
左上に記載されたタイトルを見やる。
『ハッピーエンディング_小さな恋物語_』
起から結だけじゃなくタイトルまで、ベッタベタのテンプレの恋愛ストーリー。
エンタメ系の『恋物語』で散々見つかるパターンだ。
…いや、良いのだ。
所謂、こういう既視感のチラつくテンプレ恋物語は、それはそれで良いのだ。
基礎問題みたいなものだ。
公式(テンプレ)を当てはめるだけで、理解して楽しめる。基礎問題なら、時間も頭も無駄に消費せずに娯楽にかまけられる。タイパ社会における最高の餌なのだ、これは。
基礎問題は重要だ。これが分からなければ、応用問題の重厚な作品は楽しめない。
だから気軽に楽しめるこれにもまた、需要があるのだ。
…そう思わなくてはやってられない。
私はタッチペンを手に取り、液タブの画面に着地させる。
ページをおくり、次のページの下書きを丁寧に仕上げてゆく。
都会にはこんな基礎問題が溢れている。
消費せねばならないものに溢れているからだろうか。
タイパを気にして時間に追われているからだろうか。
基礎問題は他の媒体に形を変えるのも容易だからだろうか。
基礎問題なら、頭を使わずとも即時に娯楽の快楽に浸れるからだろうか。
都会には兎角この、基礎問題が溢れている。
その中でも特に多いのが、このありふれた恋物語だ。
そんな恋物語を作る仕事を、私はしている。
都会でエンタメを仕事にするってそんなものだ。
ラジオは良い。時代遅れのガビガビの音声。話題は素人のお便り頼り。
こんな生き急ぐエンタメに囲まれた都会にも、ラジオはゆっくりとした時間を届けてくれる。
炭酸水が、二酸化炭素を着々と気化していく。
泡が減ってゆく。
窓の外は、まだ明るい。忙しい街が眠るには0時は早すぎる。
「___それでは次のお便り__」
ラジオだけが、のんびり声を紡いでいた。
全ての色が混ざり合うと、漆黒になるらしい。
遠くで、ウシガエルが鳴いている。
田舎の真夜中は漆黒だ。外には真っ暗闇が広がっている。
「__続いてのお便りは、ペンネーム、ウツボカズラさんから」
傍らのラジオから、ガビガビとした声だけが響く。
ラジオは良い。
日本国内のどんな辺鄙な土地でも、こんな片田舎でも、ラジオは電波を拾ってくれる。
真夜中の闇の中でも、ラジオはあたたかい人の声をあげつづける。
手元のノートに視線を落とす。
数式たちが細かく、所狭しと、びっしり並んでいる。
消しカスに埋もれた図形に、赤い直線を一本付け加える。
隣に積みあげた冊子の、一番上のものを開く。
奨学金ってものは調べてみれば、結構あるものだ。
下の一冊も開く。
衣食住+ライフライン。健康的で文化的な生活には、存外、維持費がかかるものだ。
狭い田舎から出る。自由になる。
言葉にするだけなら中坊でも出来ることだが、実行するにはよっぽど計画性がいるようだ。
かく言う僕も、きっと君と出会わなければ、ここを出ようと思わなかっただろう。
同じ年齢、同じ身長、同じ家族構成、似たような血筋…。
都会に住む、従兄弟の君。
住む場所が違うだけで、君と僕には天と地ほどの差があった。
君はなんでも知っていた。
自然の仕組み、食事のマナー、オシャレな着こなし、教養ある雑学…。
君は誰とでも仲良くなれた。
清潔な身だしなみ、温厚な性格、快活な身体…。
君は優しかった。
いつも、僕に惜しげもなく時間を割き、広い世界を、奥深い世の中を、見せてくれた。
「いつか一緒に行こう」
君はいつもそう言った。知らなかった事を目の当たりにする僕に向かって、心の底から。
僕は…僕はそんな君が大好きで、尊敬していて、大嫌いで、軽蔑していた。
…最後に君の顔を見た時、僕はどうしていいか分からなかった。
棺の中の君に会った時、いつも君と会っていた時よりもずっと、色んな気持ちが混じり合った。
なにも言葉にできなかった。涙にも口にもできなかった。どんな気持ちも。
黒だ。僕の色々な気持ちは混ざり切ってしまって、漆黒になってしまった。
それは今もそのままだ。
ずっと漆黒の真夜中みたいな気持ちのまま、もうすぐ僕は、大きな選択しなくてはならない。
…君が居た、一緒に行こうと言ってくれた、その場所へ行けば、僕の真夜中も明けるのだろうか。
もうずっと、そんな考えだけが、僕を突き動かしている。
僕は、僕の考えは馬鹿げているのだろうか。周りの大人が言うように。
ウシガエルが鳴いている。
蛍光灯がチカチカと瞬く。
窓の外には、漆黒の真夜中がどこまでも広がっている。
「__それでは次のお便り___」
ラジオだけが、ほんのりと熱を帯びていた。
『愛があれば何でもできる?ラブラブ♡街角カップル特集!!』
ゴシック体の文字が、水に滲んでいる。
ここに似つかわしくない。ここに足を踏み入れる人間の中で、いったい誰が読むというのだろう。
俺は読み捨てられた水溜りの雑誌に一瞥をくれ、路地に足を踏み入れる。
懐がずっしりと重い。
足が重たくなる。
いつものことだ。
いくら慣れても、向かう先がこことなれば、自然と靴はコンクリートに擦り付く。
俺に良心だの倫理だのが残っているとでも言うのだろうか、笑わせる。
「愛があれば何でもできる…ねぇ」
さまざまな愛の形が“公式”に愛と定義され、このご時世に愛は溢れた。
愛は素晴らしい!と信じてやまない純愛者の人々は皆、胸を張って言う。
“愛があれば何でもできる!”
路地は暗く狭い。
通行人の目も届きにくく、人の気配どころか、猫1匹見かけない。
仕事には格好な場所だ。
俺が思うに、“愛があれば何でもできる”なんて言葉は、あんな、社会で使われている様に明るい言葉でも、軽々しい言葉でもない。
“愛があれば何でもできる”は、愛する者のため、愛する者に相応しくなるために、何としても幸せと成功を手にしようと覚悟を決めた者を指す言葉ではない。
愛以外の何も気かけず、愛する者のために容易く一線を越え、人の尊厳も倫理もなく、合わせる顔すら持ち合わせない、惨めに落魄れた人以下の生き物を指す言葉なのだ。
…今の俺みたいな。
路地は深い。
足下を、何かがコソコソと走り去って行く。
今日は簡単な取引だ。この辺りでいいだろう。
俺は足を止める。
だいぶ奥まで来ていたようだ。奥の方から、怒鳴り声や呻き声が聞こえる。
くらりと脳を揺らすような匂いが、微かに香る。
「…案外、愛があれば何でもできるもんだな」
狭い空から、カラスの鳴き声が降ってくる。
ゴミ溜めを覆う空も、青く澄んでいた。
後悔はいつまで行っても後悔だ。
思い描いていたよりずっと狭いキャンパスを突っ切って歩く。
梅雨が近い春。カラッと晴れた真っ青な空が広がっている。
持ち上げた目線に、春の陽が刺さる。
日差しが眩しい。
受験に失敗して、第三志望くらいの大学に入学して1ヶ月が経った。
あの日、不合格がわかった日から燻っていた泥のような気持ちは、随分と軽くなった。
失敗の原因は単純だ。
私は頑張りきれなかった。だからこそ、この結果があり、今ここにいるということは、私も頭では納得している。
…けれど、どうしても考えてしまうものだ。
シラバスを確認した時。
講義室の前席に誰も座ろうとしないことに気づいた時。
キャンパスの壁のヒビに気づいた時。
就職実績の紹介をされた時。
…なんで私はここにいるのだろう、なんで頑張りきれなかったんだろう、と重たい後悔がのしかかる。
後悔はいつまで経っても後悔だ。
もう過去には戻れないから。後悔の原因を取り除くことはできない。
どこからか、小鳥の囀りが聞こえてくる。
こんな時は、友人が受験期間によく言っていた言葉が思い浮かぶ。
「大人はみんなさ、“失敗しても後悔のないように”って言うけどさ、無理だよね、そんなの。やっぱりさ、どんな失敗でも本気でやってれば、後悔はすると思うんだよね。…だって、本気でやってれば分かるもん。自分より上の結果出した人の努力とか、自分の不足してたとことかさ」
「…だから、後悔するなって結構プレッシャーだよね」
私たちのこと考えてくれて言ってるってことなんだろうけど、友人はボソリと付け足した。
その言葉が、ゆっくり心の傷口に染み込んでいく。
…その友人は、自分の希望を叶え、第一志望へと行った。
私はまだ、その友人に連絡が取れていない。
自分の心の狭さに、嫌になる。
…でも、友人のその言葉が、今の私の支えになっているのも、事実なのだ。
今日の空は青い。真っ青だ。
あの子は今、どうしているのだろうか。
良きキャンパスライフを満喫しているのだろうか。
…それとも、あの子も進路と受験のことを後悔することがあるのだろうか。
鳥の囀りが澄んだ空を舞っている。
私は校舎に向かって歩き出す。
大学生たちの騒ぐ声が青い空に吸い込まれていった。