後悔はいつまで行っても後悔だ。
思い描いていたよりずっと狭いキャンパスを突っ切って歩く。
梅雨が近い春。カラッと晴れた真っ青な空が広がっている。
持ち上げた目線に、春の陽が刺さる。
日差しが眩しい。
受験に失敗して、第三志望くらいの大学に入学して1ヶ月が経った。
あの日、不合格がわかった日から燻っていた泥のような気持ちは、随分と軽くなった。
失敗の原因は単純だ。
私は頑張りきれなかった。だからこそ、この結果があり、今ここにいるということは、私も頭では納得している。
…けれど、どうしても考えてしまうものだ。
シラバスを確認した時。
講義室の前席に誰も座ろうとしないことに気づいた時。
キャンパスの壁のヒビに気づいた時。
就職実績の紹介をされた時。
…なんで私はここにいるのだろう、なんで頑張りきれなかったんだろう、と重たい後悔がのしかかる。
後悔はいつまで経っても後悔だ。
もう過去には戻れないから。後悔の原因を取り除くことはできない。
どこからか、小鳥の囀りが聞こえてくる。
こんな時は、友人が受験期間によく言っていた言葉が思い浮かぶ。
「大人はみんなさ、“失敗しても後悔のないように”って言うけどさ、無理だよね、そんなの。やっぱりさ、どんな失敗でも本気でやってれば、後悔はすると思うんだよね。…だって、本気でやってれば分かるもん。自分より上の結果出した人の努力とか、自分の不足してたとことかさ」
「…だから、後悔するなって結構プレッシャーだよね」
私たちのこと考えてくれて言ってるってことなんだろうけど、友人はボソリと付け足した。
その言葉が、ゆっくり心の傷口に染み込んでいく。
…その友人は、自分の希望を叶え、第一志望へと行った。
私はまだ、その友人に連絡が取れていない。
自分の心の狭さに、嫌になる。
…でも、友人のその言葉が、今の私の支えになっているのも、事実なのだ。
今日の空は青い。真っ青だ。
あの子は今、どうしているのだろうか。
良きキャンパスライフを満喫しているのだろうか。
…それとも、あの子も進路と受験のことを後悔することがあるのだろうか。
鳥の囀りが澄んだ空を舞っている。
私は校舎に向かって歩き出す。
大学生たちの騒ぐ声が青い空に吸い込まれていった。
アリが根付いている。
地面には、背高の、変わった形がにょきにょきと生えている。
木の根元の端、朽木の腹元…
木の枝に、トンボが根付いている。
湿った、ねっとりした空気が立ち込めている。
風が、ゆっくり抜けていく。
それほど爽やかでない、湿った風が。
ゆっくりと足を踏み出す。
風に身を任せて。
奥へ、奥へと歩くたびに、植物が増えていく。
根付いた生物たちは、背高の、てっぺんの傘を、風に任せて微かに揺らしている。
木々の梢に、リスが根付いている。
倒木の下に、イノシシが根付いている。
水辺の朽木の端に、カエルが根付いている。
何も考えなくていい。
ただ、奥へ、奥へ。
仲間の方へ。
風が緩やかに吹き抜けていく。
僕を追い越して、奥へ、奥へ。
湿った、日の当たらない、快適な場所へ。
ここまで来ると、大きなものも増えてくる。
オオカミが根付いている。
クマが根付いている。
風がそっと傘を揺らして、奥へ、奥へ、と進んでいく。
僕は風に身を任せて、ゆったり歩く。
もうすぐだ。
もう少しだ。
あと少しで、僕たちの親に会える。
みんなと一緒になれる。
風は僕たちの良き指揮者だ。
彼らの導くままに、身を任せていれば、僕たちは、広く、大きく、多くなれる。
世界を飲み込める。
全て一つになれる。
一にして全の、母なる大地になれる!
風に身を任せて、僕は歩き続ける。
湿った空気の中を、湿った風が、まだ小さい僕たちを乗せて、どこへともなく吹き抜けていく。
まだ幼い僕たち_キノコの胞子を乗せて。
せっかく、知能も高くて移動能力も高い体に行き着いたのだもの。早く行こう。
僕は湿ったゴールを目指して歩き続ける。
風に身を任せて。
周りの僕たちが一斉に揺れる。
胞子が、風に乗って、流れていった。
「ドラゴン討伐ぅ?」
予想外の話に、思わず素の口調で聞き返す。
「左様。ドラゴン討伐だ」
目の前の男が、真面目くさった顔で復唱する。
「嘘…?」
「私が嘘を言う人間に見えるか?」
「…」
ええ、とても…と口の中に生じた言葉を、なけなしの理性で飲み下す。
なにしろ、ビジネスの世界を、貧困からその身一つでのし上がってきた大商人なのだ。この目の前にいるヒトは。
機嫌を損なうのは賢くないが、正直にいえば、自分に都合のいい虚言や嘘の一つや二つは容易く吐きそうな人間ではある。
ここは都会のビジネス街。
ビジネスビルが並ぶ一角に、ひっそりと立つ安物のボロビル。そんな古びたビルの四階に、ひっそりとテナントを構えるのが、私の店【タイムロスト】である。
主に時間のトラブルを取り扱う時間専門店だ。
取り扱う仕事と立地の関係上、ここを訪れる人間は少ない。いつもなら、私の仕事はもっぱら、閉店時間まで、近場で腹を満たしながら店番をするか、店内外で暇を潰すことなのだが、今日はこの大口顧客のご来店で、その日常は脆くも崩れ去ってしまった。
眉を顰めて私を眺めていた大商人サマは、乾いたため息を一つ吐き、口を開く。
「…そんなくだらない嘘をついて何の利益があるというのだ、全く。…こうしている今でも貴重な時間が浪費されているというのに…」
どうやら心の裡を読まれていたらしい。
「…疑ってしまい、失礼しました。続きをお話しください」
客は不服そうに鼻を鳴らすと、話し始めた。
…客の相談は、よくあるパターンだった。
余暇の時間が定期的に盗まれているというのだ。
休日が一瞬で過ぎ行き、普段の家での休息もままならないらしい。
だから、盗まれ、失われた時間を取り戻して、ついでに犯人も捕まえたい。そういう、ヒトによくある依頼だ。
…確かに、大金持ちの余暇時間は需要が高い。
なんでもできるという万能感を伴う豊かな時間だからだ。おそらく、誰かの小遣いへと変えられているのだろう。
大商人なだけあって、この客は話している間も隙がない。
それは、相談しているこの時さえも、私の心の裡をピタリと読み取ったところからも分かるだろう……まあ、私が読みやすかっただけかもしれないが。
だからこの時間泥棒も、詐欺などの類ではなく、空き巣やコソ泥の手合いだろう。
…引っかかるのは。
気になっているのは、ドラゴンだ。
どうやら顧客は、時間を盗まれた感覚を覚えた時、視界の端にドラゴンが必ず写るというのだ。
玉虫色に輝く、小さいドラゴンが。
「分かりました。受けましょう」
私は言葉を継ぐ。
「…しかし、上手くいくという保証はできませんよ?ドラゴンが視界に現れるという状況は私は初めて聞きますし、私はドラゴンと戦ってこともございません。…もし上手くいかなかった場合、前金は戻って来ませんのでご了承を」
顧客は神妙に頷く。
「ふむ、正直な返答だな。気に入った。…ちょっとばかり顔が素直なだけで、頭は良いようだね、君は。…よろしい、任せるよ」
「ありがとうございます。では、この紙に…」
私は書類にサインを促す。
顧客が書き終えたところを見計らい、私は顧客の眼を覗き込む。
我も真も強い、力強い眼だ。エネルギーに溢れた、明るい眼。…しかし、虐げられたものが持つ特有の暗い影が奥底にチラついている。
面白い良い眼だ。さて、この瞳から時間を盗めた勇者は一体どんな奴なのか。
私は好奇を含んだ笑顔で、顧客に語りかける。
「それでは、承らせていただきます。…これからしばらく、お客様の失われた時間を取り戻すために尽力を尽くさせていただきます」
「ああ、頼むよ」
「…それでは失礼します」
私は大商人サマの眼に潜り込む。なんだかんだこの方法が、一番効率が良いのだ。…コストを気にする必要はあるが。
自分の輪郭が朧げに感じられる。
…顧客の失われた時間を探すため、私の失われた時間を活用しようではないか。
早く終わると良いな。
そう思いながら、私は店内を見回す。
顧客はハッとしたように首を傾けながら、店を出ていく。
カラン…ヒビの入ったドアベルが、中途半端に鳴り響いた。
重たいドアを開ける。
石油とシンナーの匂いがこびりついた空気が、むわっと広がる。
迷わず部屋に入り込み、一室の無機質なコンクリートの壁の前に行く。
そこには、黒い影がくっきりと貼り付いている。
小学生中学年くらいの背の高さの、黒い子どもの影だ。
いつからあるか、なぜあるのかは分からない。
でも、この影は、ずっとここにいた。…工場長が夜逃げして、工場が稼働を停止する前からずっとあった。
それに気づいていたのは、僕だけだった気がする。
ここの工場で勤めていた工場長の一人息子だった僕。
影に気づいたのは、僕だけだった。
影は、こちらに気づいたようだ。
右手を軽く上げて、手を振る。いつもの挨拶だ。
僕もいつものように手を振りかえす。黒い影は嬉しそうに揺れる。
僕が子どもの頃、両親はいつも忙しく働いていた。
両親は、僕に無関心だった。躾も身だしなみも勉強も何もかもほったらかされて、僕は育った。
だから、僕の遊び相手はもっぱらこの影だけだった。
両親がそんな親だった理由は、ずいぶん経ってから知った。
僕の両親には、到底返せない借金がいくつかあったらしい。両親は借金取りに言われた職場への勤務と夜逃げを繰り返しながら、全国を渡り歩いて暮らしていた。
自分の命を守るのに必死で、子どもに関わっている暇がなかったみたいだ。
両親が夜逃げをしてからしばらくは、サングラスやスーツをつけた大人たちが、よく来ていた。
でもそれも、ある日からぱったり来なくなった。
今、この工場は、僕と影は2人きりの貸切になっている。
「今日はおにごっこをしよう」
僕は影に声をかける。
影はゆらゆらと笑って、親指を立てる。
「じゃあ、いつも通り、僕が鬼ね!」
僕はゆっくり数を数える。
そういえば影は、僕と一緒に成長している気がする。
僕が赤ちゃんの時は、影も一緒にはいはいしてたし、僕が走れるようになると、影も一緒に壁の中を駆け回っていた。
でも、ある日、影の成長もぴったり止まった。
小学四年生の五月、中学年のその時に。
僕らはいつも遊んだ。
僕らの遊びはいつも、おにごっこかかくれんぼのどちらかだった。
それは今までもそうで、これからもそうだ。
ある日以外は。
ある日…厳つい大人たちがやってくるようになって、僕たちが小学四年生になって1ヶ月が経って、影が遊びが飽きたと初めて言ったあの日。
僕と影が、大人の真似をして“火遊び”をした日。
…あれから、僕らはずっと子どものままで。
それから、僕らを邪魔する大人たちも、ここに近寄らなくなった。
僕らはいつも子どものままで、子どものままの遊びをした。
僕も影も、もう大人の真似はうんざりだから。遊びでも大人を真似ることはない。
いつも。ずっと。
僕らはずっと子どものままで。
ゆっくり目を開ける。影が、壁を元気よく走っている。
僕は影を追いかける。
焦げた匂いが、僕らの足元から微かに香った。
「さがさないでください」
ゴワゴワの筆圧でそう書かれた紙切れが、木製のテーブルの上に置き去りにされている。
ひどい紙切れだ。切り離したであろう部分はところどころ千切れ、皺がより、修正したであろう部分の紙は薄く擦れたり、穴が開いていたりする。
朝起きてみたらこの有様だ。
今年に入っていったい何回目だろうか。
余計なことは言わないようにと引き締めた口元から、思わず低く呻き声が漏れた。
「またかよ、師匠…」
師匠は森番だ。
森番は、町のはずれにある小さな人工森の中に住み、森を管理する人間だ。町の人の要望に合わせて、木材を町へ卸したり、木や蔦で作る雑貨用品を売ったり、森の獣を狩り卸したり、害獣を駆除したりする。
迷い込んでくる旅人や、やんちゃの過ぎた町のガキを送り届けるのも、森番の仕事だ。
いわば森のなんでも屋。
俺はそんな仕事に憧れて、森番である師匠の元で、住み込みの弟子をやっている。
昔、俺は“やんちゃの過ぎたガキ”だった。
おとなしく出来の良い兄を持った次男坊の俺は、(どうせ俺は兄貴のオマケ。家を継ぐこともないミソっカス)という自己評価に忠実に、声のデカさだけが取り柄の、大人に怒鳴られてばかりの、かしましいガキだった。
ある日、いつもの虚言を発動し、家出をすると言って、森へ入って行方不明になった俺を、発見して、俺の話を全部聞いた上で、少ない言葉で優しく諭してくれた初めての大人が、師匠だった。
…それから、その次の日、俺はさっさと実家を立つと師匠の家に押しかけ弟子としてまんまと住み込んだ。
がっしりと男らしく、それでいて寡黙で、父性溢れるカッコいい師匠。
当時の俺にとって、そんな師匠は憧れだった。
…ところが、そんなイメージは、一緒に暮らし始めると、脆く崩れ去ることとなった。
師匠は確かに、大柄で厳つい顔でクマみたいだ。だけどイメージ通りなのはそれまで。
師匠が静かなのは寡黙なわけでない。
気が弱くて、声が小さくて、ぶきっちょ…それが師匠だ。
実力はあるのに気が小さいせいで、損をする。
そんなぶきっちょなクマ男が師匠だ。
客や商人から何か言われると、デカい肩を申し訳なさそうに縮めて、困った顔で頷く。見てられない。
…それが判明して以来、客との交渉は、俺がしている。
師匠のすぼんだ背中ごしに、声を張って俺は失礼なやつをやっつける。
また師匠は、家事が出来ない。
木や蔦の加工ならなんでも出来るくせに皿は割る。
家事などの雑務が全て俺の仕事になるまで、そう長くはかからなかった。
そんな現状に師匠は気を揉む。
住み込みの弟子とはそういうものだろうし、ましてや失礼を承知で飛び込み弟子入りを仕掛けた俺が、そんな待遇なのは当たり前だ。至極当然のことだと、俺は納得している。
だが師匠は気が小さい。俺に雑務をさせたり、客のあしらいを任せたりすることを必要以上に気に病み、ウジウジ悩む。
…そして
それが溜まりに溜まると、こうやって家出騒ぎをやらかす。
曰く「弟子に悪い」とか細い声で呟いて肩を縮め、壁にかけてある背嚢を背負い、磨かれた猟銃と、黄色い背の高い猟犬を連れて、グスグス出ていくのだ。
「はぁ…」
俺はドアの近くに寝そべる、がっしりずんぐりした俺の猟犬に声をかけて、猟銃を背負い、外へ出る。
師匠を回収しなくては。
森の真ん中の小高い丘へ行く。
ここから叫べば、声は森の全体に響き渡る。町一番のやかましやの俺の声ならば。
深く息を吸って、怒鳴る。
「師匠ー!さっさと帰ってこーい!!いいですか、俺は毎度師匠じゃなきゃダメなんだって言ってますね?!てめえから教えてもらえなきゃ、意味ないんですよ!!!出ていけば幸せってもんじゃねーつーの!!早く帰ってきてくだせえって、いつも行ってんだろうが、早よ出てこい師匠ーっ!」
俺は森の真ん中で、精一杯の声で愛を叫ぶ。
師弟愛を叫ぶ。
愛を叫ぶってのは、素敵な女性にしてやるのが相場だろうに、何が悲しくて俺はクマみてえな師匠に愛を叫んでいるのだろうか。
いやいや、俺は首を振る。
俺は師匠のことは嫌いじゃない。さっさと戻ってもらわないと心配だし、困るのだ。
…だから頼むからさっさと帰ってきてくれ。
…これだけ叫べば、もうじき、厳つい髭面と黄色い犬の細面が、ひょこっと木々の間から出てくるだろうな。
俺は気を紛らわすために、空を仰いで息を吸う。
うっすらと陽に透けた葉が、呑気にさわさわと動いた。