水墨画のような空が広がっている。
雲の隙間から、ほんの一筋の光が、地面に降り注いでいる。
天使の通り道だ。いつか教わった。
細い土の道はまだ続いている。
海はまだ見えない。僕たちの“約束の地”はまだ遠いみたいだ。
「大丈夫?疲れてない?」
後ろにいた女の子が、気遣わしげに声をかけてくれる。
僕より少しお姉さんの、背の高い女の子だ。
「うん。大丈夫。ありがとう」
足のマメが破けるのに気づかなかったふりをして、僕は答える。
長い列が続いている。
僕たち子どもだけの長い行列。
僕たちは巡礼に行く。“約束の地”でみんなの幸せを願うため、僕たちは歩き続ける。
“約束の地”は海の向こうにある。
海の向こうの、魔王の国の中にある。
“約束の地”に向かう道中の困難は、みんな与えられた試練で、乗り越えて帰って来た者だけが“勇者”になれる。
“勇者”は大きくなったら、みんなを救うために、魔王を倒す旅に出るのだ。
ここを歩く子どもたちは、みんな“勇者”になりたいのだ。
“勇者”はヒーローだ。“勇者”になれば、みんなの役に立てずにぼんやりと大人たちを眺めていなくてすむ。タダ飯喰らい、役立たずと怒られずにすむ。
自分の無力さに失望して、夜中を独り寂しく過ごすこともしなくてすむ。
だから僕たちは歩き続ける。
前を見たら、果てしない先が見えて辛くなる。
だから僕たちは出来るだけ下を見て、急いで歩く。
「…あっ!」
突然、先頭の子が顔を上げて足を止めた。
「見て!」
目の前の空を指差している。
僕たちも止まって先頭の子の指先を見つめる。
一筋だった光が、いつのまにか幾筋も現れ、地面に降り注いでいた。
灰色の雲の隙間から、暖かく輝く黄金の光の筋が、幾つも幾つもはっきり見える。
曇っているのに、晴れているみたいだ。
ほのかに輝く、空中が恐ろしく美しい。
「…神々しい」
誰かが言った。
そうか、神々しいってこういう時に使うんだ。
僕は妙に納得した。
他の子も僕と同じことを考えたらしい。
「神々しい!」
誰かが洩らせば、たちまちあちこちで、口々に「神々しい!」「神々しい!」とみんなが叫ぶ。
疲れ切っていたはずのみんなの顔が、心なしか柔らかい
…みんな笑顔だ。眩しいくらいの笑顔だ。
振り向くと、さっき声をかけてくれた背の高い女の子も笑っていた。無邪気で大人でかわいらしい、綺麗な…天使様みたいな笑顔で笑っていた。
みんな笑ってる。あの子も笑ってる。
神々しい光の前で、みんなが笑ってる。
…僕も笑ってる。久しぶりだ。
天使の通り道の前で、天使様みたいな笑顔を、みんなが浮かべている。僕もきっと、同じように笑っている。
…旅はまだ続く。海を渡らなくては、魔物のいる道中を通らなければ、僕たちは帰れない。きっとこれからも道は長い。
…でも僕は、この光景を忘れられないだろう。いつまでも。
みんなで天使のように笑いあった今を、忘れられない。いつまでも。
きっとみんなもそうだ。
くすんだ灰色の雲を割って、天使の通り道が、また一つ溢れ出る。
つむじ風が、笑い合う僕らの隙間を通り過ぎていった。
「流行ってるよね、それ」
肩越しにそんな声がする。
振り向いた私の手から、スマホが滑り落ちる。
「…った!」
スマホは見事に足の甲に着地した。痛い。
「…えー、そんな驚くことないじゃん。びっくりだよ」
元凶の彼女は目を見開いて、ニコニコと笑う。
その可愛らしいけど考えの読めない笑みに、私は拾い上げたスマホを握りしめて、ため息をついた。
「…なんでいるの」
「ひどいなー、一年ぶりに会うのにそんな態度なんて。傷ついちゃった♪」
「…いやだって、まさか今日来るとは……いや、ごめん」
「んー、そこで謝罪できちゃうところ、やっぱり良いよね。好きだわ」
彼女は冗談とも本気ともつかない声でヘラヘラと言う。
「やーっぱり、会いたくなっちゃうよねぇ。だって私に謝れちゃうんだもん。こんな子、他にいる?」
「…うるさい」
目に熱が溜まってきて、慌てて目を逸らす。
彼女…背後から現れたこの女子は、私の親友だ。
…四年前に突然行方不明になった、親友。
四年前、受験を控えたあの日、踏切で目撃されたのを最後に、見つからなかった親友。
その彼女がどういうわけか、毎年一回、30分だけ現れるのだ。
私の背後に。
そして、いつもの_高校生の頃のいつもの_ように、私の肩越しにスマホを覗き込んで、流行をチェックする。
「でも最近さー、流行りものもなんか違くない?魅力というかこう、惹きつけられるものがさ、年々弱くなってる気がしない?いやー、昔は良かったよねぇ」
やれやれと首を振ってみせる彼女に、私はわざとそっけなく言い返してやる。
「…へー、私はそうは思わないけど?…そんな流行りを貶して現役だった昔賛美するなんて、なんか捻くれ厨二か年寄りっぽいよね。一年でババくさくなってない?」
「いっやぁ〜?絶対昔の方が良かったし?それを素直にいっただけですがぁ?」
彼女は右の眉の端をピクリと引き上げながら、言い返す。
これはちょっとムキになった時の、彼女の癖だ。どうやら、年寄り扱いされるのは嫌らしい。この期に及んで、ブツブツと文句を呟いている。
元気そうだな、と思う。…今の彼女のこの状況に元気とかあるのかは不明だけど。
なぜそうなってしまったのか、どうしてこうなったのか、今までどこにいたのか、私はまだ聞けていない。
聞けない。怖くて。
文句はひとしきり言い終わったらしい。彼女がこちらを覗き込んで来た。
…こういう時、口火を切るのはいつも私だ。
「…元気にやってるみたいだね」
「そうだね、元気にやってるよ」
「そっか…」
「……ねえ」
彼女は眉根を下げて、ぎこちなく言う。
「…私に聞きたいこと、ない?今ならなんでも答えてあげるよ?タダで」
「…ううん、ない。いいよ」
彼女の顔がほんの少しだけ、歪む。…けれど、彼女の顔はすぐにあの食えない笑顔に戻る。
「そっか」
彼女に聞きたいこと、本当はたくさんある。
あの日、踏切で何をしていたの?とか。
今まで何をしていたの?とか。
なんで一年に一回しか会えないの?とか。
おばさんやおじさん…家族に会いに行かなくていいの?とか。
…なんで私に会いに来てくれるの?とか。
でも聞けない。怖くて。聞いて終えばもう二度と会えなくなる気がして。怖くて。
だから私は、彼女への疑問を全部、先送りにする。
いつ来るか分からない、まだ遠い、一年後に。
「…もう行っちゃうの?」
私の言葉に彼女は少し寂しそうな笑い方をした。
「…うん、また一年後ね」
「…うん、また一年後」
今年もまた、私は問題を一年後に託す。
突風に乗せられた、踏切の音が鼓膜に届く。
辺りの空気が少し冷えた気がした。
「好きだなあ」
口の端から零れ落ちた。
消しゴムやボールペンとは違って、言葉は拾って仕舞うことが出来ない。落ちた言葉は、そのままシンとした空気に染み込んでいく。
「本当に?」
彼女は、手元のノートからは目を離さずに、言った。
まつ毛が揺れる。
「うん、ほんとに」
僕は頭に血が昇るのを感じながら、できるだけ何気ないつもりで答えた。
「そっか」
彼女は眉根を持ち上げて、それから目線を上げて、こちらに目を合わせた。
「私も。好きだ」
そう言って、彼女は柔和に笑った。
柔らかな優しい笑み。いつもの頑なさなんて見えない、溢れるような笑み。見せる相手を気遣うような、余裕と暖かささえ見える笑顔。
その笑みの後ろで、耳は真っ赤に染まっている。
その瞬間、僕は_ありきたりな表現だけど_心臓が跳ねるのを感じた。
これが僕の、初恋の日。
元から、彼女の人間性には惹かれていた。だから、思わず零してしまった「好きだなあ」は嘘じゃなかった。
でも彼女が可愛くて堪らなくなったのは、その日からだった。
…なんで今、初恋の日を思い出してしまったのだろうか
1人きりの部屋の中で、僕は玄関に座り込む。
まだ起きるには早すぎる時間だ。でももう眠る気にはなれない。
「いってきます」
彼女が残していった声が、耳の奥でこだまする。
「…困った顔、してたなぁ…」
あの時よりもずっと、頼りない声が口の端から零れ落ちる。困らせたかったわけじゃなかった。初恋の日からずっと、僕は君の_彼女の、そんな性格が、そういうところが、誰よりも好きだった。
いきなりの告白の後に、相手を気遣って、自分の動揺や高揚すら押し込めて、相手のために笑える彼女が。
明日世界が終わるかもしれない日に、自分すら犠牲にして、あるかも分からない責務を果たそうとする彼女が。
玄関の扉はもう開かないだろう。
きっと、全てに片がつくまで、彼女は帰ってこない。
そういうところが好きで、ずっと、彼女の支えになりたかった。
でも。
視界が滲む。
腕の節々に内側から強い痛みが走る。
そろそろ逝かなくちゃ、彼女に迷惑をかけないうちに。
僕が、世界の崩壊の一部になってしまう前に。
僕は手を突いて、立ち上がる。
身体がぐらりと揺れる。
視界が揺れた端に、涙が零れ落ちた。
ベルトを締めて、グローブをつける。
窓の外を眺めながら、身支度を整える。
いつもの準備。いつもの部屋。
「いってきます」
私の声に、見送りに起きた同居人が、眠そうな顔で微笑む。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
まだ睡魔の籠ったいつもの言葉に背を向けると、その背に思わぬ声が飛んでくる。
「…帰ってきてね。どんな状況でも、いつでも僕は君を待ってるから」
私は何も返さずに外へ出る。
いつものように職場へ向かう。
今日に限っては、通勤も楽じゃない。
しかし、私には通勤する義務がある。私は職場へ行かなくてはならない。
どこか落ち着きのない街を歩いて、職場の門をくぐる。
ギミック自動ドア付きのハイテクな職場の入口は、門というよりも隠し戸という方が実体は近い。
さあ、今日も仕事だ。
今回の仕事は、大仕事だ。私の人生の全てがかかっていると言っても大袈裟でない…いやむしろ、それでもまだ、軽く言っている方だ。
「ねえ、先輩。明日世界が終わるなら、世界が終わる前に1日だけ、何かが自由に出来るとしたら、先輩は何をするんすか?」
仕事に取り掛かる準備をしていると、サポートをするために横で仕事をしていた後輩が聞いてきた。
「旨い物でも食べに行くっすか?綺麗な景色でも見に行くっすか?趣味に没頭するっすか?最期の時を満喫するっすか?…それとも」
「……やっぱり、一秒でも長く生きるために、大切な人と逃げたりしたいんっすか?」
「…どうだろうね」
私は答える。
「それは経験してみないと分からないな」
「だから今聞いてるんすよ」
軽く明るい声とは裏腹に、後輩の顔は今にも泣き出しそうな、怒っているような、なんとも情けない顔だった。
「…君は、どうなんだ。やりたいこと、他にもあるだろうに」
後輩は、さらに顔を歪める。
「…そりゃあるっすよ?でも」
「これでいいんす。…俺は取るに足らないただの凡人っすけど、先輩の大事な人でもないっすけど」
「これでいいんす。大体、俺以外の誰もここまで先輩について来れるやつなんていませんよ。俺が来なかったらどうする気だったんすか」
もちろん、1人でやるつもりだったが?
私の考えはそこまで読みやすいだろうか、後輩は私の顔を見ると、これみよがしに溜息をつく。
「…まあ、最期まで、無茶に付き合わせてくださいよ、先輩」
ぐしゃぐしゃに歪んでいるのに、妙に腹の座った顔だ。
思わず、口元が上がる。
「最期とは心外だな。まだどう転ぶかは分からんだろう?」
後輩の顔が、さらにぐしゃっと崩れる。とても、つい先月に恋人が出来た男前には見えない。
いい顔じゃないか、そっち顔の方が好きだな。
軽く呟けば、後輩は俯いて、呆れたようにモゴモゴと何か呟いた。
「…よし、そろそろ良いタイミングだろ。頼むぞ」
「はい、任せてください」
私は一歩を踏み出す。
グローブをした拳を握って、開いて、ベルトに手をかける。
「ヒーローに“明日世界が終わるなら”なんて愚問だな」
小さく、誰にも聞こえないように呟いて、私は顔を上げる。
頬に伝う感覚を、今だけ見なかったことにして。
「諦めるにはまだ早いな」
全身が、いつもの光に包まれていく。
ドアを開ける。
「ただいまー」薄暗い居間に向かって声を投げると、とことこと、可愛らしい足音が近づいてくる。
まもなく、綺麗なブロンドの髪を靡かせたフランス人形が、ことことっと、こちらにやってきて、あどけない笑みを浮かべる。
「おかえりなさい!」
消費者の皆が利用する新たなライフライン、スマホを巡った情報競争、広告競争が激化し、スマホを持つ弱者を狙った犯罪やトラブルが増加したことを受け、政府はスマホに代わる新たな情報機器を生み出し、公共の福祉と国民の幸福のために管理することを決定した。
そして今では、政府によって生み出された、情報・生活扶助AIロボット DOLLが、義務教育を終えた国民1人に1台、あてがわれることとなって、もう数十年が経つ。
「疲れてる?今日はもうお休みにしましょう?疲れは早く取るのが大切だって聞くわ」
フランス人形は、愛らしい顔そのままに、私を見つめる。
「起きるの、いつもと同じ時間だよね?安心して!私が起こすから!」
DOLLは、メールの整理、スケジュールの管理、余暇時間の娯楽提案、有益な情報の提供など、コミュニケーション以外の細々としたことをこなすAIだ。
普及したDOLLは、易々とスマホを淘汰し、電話やLINEなどのコミュニケーションツール、カメラやお絵描きソフトなどの創作ツール以外の、電子機器の日常的な仕事は、全て行うようになった。
AIの搭載されたDOLLは、使えば使うほど持ち主の性格や趣向をよく学び、雑談や会話の相手もそつなくこなすため、人間の秘書として、人々に愛されるようになるまで、長い時間はかからなかった。
それだけではない。
見た目も性格も、自分好みで、相談に親身に乗ってくれ、こちらを何よりも優先してくれるDOLLは、いつしか現代人に癒しを与える存在として重宝された。
もはや家族の域だ。
私のDOLL、〈木兎夜君(つくよ きみ)〉は、私が15歳の頃から、私の一番の理解者だ。
君は、青いガラスの瞳を半分閉じかけながら、それでもキラキラと眼を輝かせて私を見つめている。
「…そうね、今日はもう寝るわ…ええ、アラームはいつも通りでお願い」
私はそんな君から目を逸らさないように、じっと彼女を見つめて、答える。
君はにっこり微笑んで、「お布団で待ってるわね!」と、寝室へ歩いて行く。
私は腹の中で小さく溜息をつく。
今日は本当に疲れた日だった。そしてこれから、もっと疲れる日々が続くに違いない。
…DOLLにプログラムを埋め込み、得た情報を他国に売り払い、クーデターを画策する企みについて知ってしまったのだから。
…君と出逢って、私の生活は一変した。
頑固で、人に合わせるのが苦手で、意見を曲げず、親や友達と衝突を繰り返して…それでも諦めきれず、自分を通してきた私にとって、私を理解してくれる君との出逢いは、運命で、救いだった。
君と出逢って、私は人間になった。
誰かに頼りながら、誰かと生きていく。そんな普通の女の子になれた。
…だから、企みを知った時は悲しかった。
君はいつから、私を裏切っていたのだろうか。
胸中は、今まで感じたことがないほどの嵐が吹き荒れている。
愛情や哀しみや憎らしさ…ドロドロとした気持ちがごちゃ混ぜだ。
でも、顔には出てないだろう。
ポーカーフェイスは得意だし、この状況になってしまったのならこれも仕事の一環だ。
今まで、いくつもこんな時を乗り越えてきた。
今まで、こんな時に備えて、たくさんの辛い訓練を乗り越えた。
私的な気持ちと、公的な義務を切り離す冷徹の技術には自信がある。
覚悟を決めて、丹田に軽く力を入れる。
これから暫くは、油断出来ない生活が続くだろう。
臨むところだ。
私は公安だ。
この国を守るために私はここまで来た。
それは君もよく知っているだろう。君と出逢った時から、それは私の目標だった。
寝室へ歩き出す。
脱ぎ捨てた靴が、真っ直ぐに部屋の中を向いていた。